宮下奈都著『羊と鋼の森』を読んで


今回は、宮下奈都さん著作の『羊と鋼の森』を読んでみました。

第13回本屋大賞、第4回ブランチブックアワード大賞2015、第13回キノベス!2016 第1位の三冠を達成し、山崎賢人さん主演で映画化までされている作品です。

メディアでも大きく取り上げられていた作品なので、既に読んでいたり知っていたりする方が多いかもしれません。


「調律師の青年が実直にピアノと向き合い、周囲の人達とのかかわりあいを通して成長していく話」

ほんとうにざっくりと大筋を言ってしまえばこのような内容なのですが、中身はもっと泥臭く人間味溢れています。


以下ではネタバレを含んでおりますので、ご了承の上読み進めてください。


さて、本稿では、特段本筋に触れたり本書の書評をしたりするわけではなく、

登場人物たちの言葉のなかで特に印象づけられたもの・考えさせられたものを紹介していこうと思います。

(諸々の解説や解釈はいくらでもネットで探すことができますからね。)


1.調律師・外村が目指した音

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」― 原民喜

作中では、原民喜氏のこの言葉が、主人公外村の目指す調律の姿として掲げられていました。

自らを調律師の道へと導いた板鳥さんが目指す姿を尋ねたとき、彼がもらった言葉です。


なんといえばいいんでしょうか。

上手く言葉にできなかった感情がこうも文字としてあらわされているのを目の当たりにし、

ひどく驚いたのを覚えています。

今までピアノを聴いてきたときに感じていたぼやっとした感情を、アイスクリームを掬うようにくるりと綺麗にくり抜かれた気分。


名前のない病におびえる患者が、医師に病名を下されると、

自分を苦しめる病の正体がわかったからか、安堵の表情を浮かべるようになるといいます。

そんな気持ちに似ているのでしょうか。

小説を読んでいるだけのはずなのに、ピアノの演奏が流れている気がしました。


2.誰が為に鋼は鳴る

人生で初めて訪れたコンサートでピアノが鳴り出した瞬間の、外村の心の声から抜粋。

―何も知らなければ、板取さんの音とは思わなかっただろう。だけど、僕にもわかる。これが理想の音だ。弾く人のための音。ピアニストの腕が一番引き立つ音。誰も調律師の腕のことなど考えない。それでいい。ピアニストが称賛されても、ピアニストの手柄でさえないのだろう。それは、音楽の手柄だ。


僕はこの文章を一読して理解できず、2、3度読み返しました。

―音楽の手柄とは何か。


最高の音を奏でる土台作りをする調律師と、その土台の上で悠々と演ずるピアニスト。

聴衆は誰も土台など気にしないが、その音を生かし奏でるピアニストを称賛する。

だが実際その聴衆の心を揺さぶったのはピアニストではなく、音楽であるという。


音楽は誰かが誰かのために鳴らす、その関係性の中にあって初めて成り立つもの。

その目的は聴衆の為でも、演奏者自身の為でも、楽器の為でもなんでも良い。

この作品を通して、そのように私は読み取りました。


であれば、音楽の手柄とはきっと、関係性の仲立になってくれることそれ自体なのかもしれない、と思わずにはいられませんでした。


3.求める音に正解はあるか

調律師としてお客さんの要望に応えるにはどうしたらいいのかわからなくなっている外村に柳さんが気楽に放った一言。

「でもさ、俺たちが探すのは四百四十ヘルツかもしれないけど、お客さんが求めているのは四百四十ヘルツじゃない。美しいラなんだよ」


共通言語として440Hzという周波数は設けられているものの、その響きがどうなれば満足するのか、その答えは一様ではない。

お客さんがどんな音のイメージでもって調律を依頼しているのか、言葉を交わしながら探る必要があります。


時にお客さんと調律師の希望が合わないときもあり、そこに不和が生じることもあります。

でも、その問題に正面から向き合っていったのが外村です。強欲ですね。


この外村と対照的な姿勢でいたのが秋野さん。

―お客さんの思う”いい音”を作ること。

その使命のみに付き従えばよいとする秋野さんの考えに疑問を持った外村が、何度も思ったことを心の中で繰り返す場面が印象的でした。

―だけどそれは。だけど、それは、可能性を潰すことにならないか。ほんとうに素晴らしい音、心が震えるような音と出会う可能性。僕が高校の体育館で出会ったように。こちらがそれを提供できるとは限らない。僕などまだまだ、まだまだだと思う。だけど、そこを目指していかなければ、永遠にたどり着けないだろう。

「ほんとうに素晴らしい音、心が震えるような音と出会う可能性」

まるで森の中をさまようように果てのない旅だけれども、

初めから「求めること」をしなければ「正解」が見つかることはないのではないか。

今作ではそのことに気づかされた気がします。


4.才能とはなにか

外村の思う調律には才能が不可欠で、たとえ努力を重ねたとしても思うような調律にたどり着くことはできないんじゃないかと一抹の不安を覚えた。その時思い切って柳さんに尋ねたときの応答。

「才能っていうのはさ、ものすごく好きだっていう気持ちなんじゃないか。どんなことがあっても、そこから離れられない執念とか、闘志とか、そういうものと似てる何か。俺はそう思うことにしてるよ」


ハッとした。

自分には、執着がない。

どうしてもやり遂げなくてはいけないこと、放したくないもの

そういうものに似た何か。


だから身近に何か熱中できるものを持っていたり、決して揺るがない友人・恋愛関係を築いていたりする人を見ると、なぜか焦らされ、不安になります。

自分には人生を生きる才能がないのではないか、と。


ものすごく好きだという気持ちを持つことができれば、何か変わるのだろうか。

そう願ってやみません。


5.これさえあれば。

外村と柳が調律で関わっていた双子の高校生、和音と由仁がイップスから復帰して初めて二人の前で演奏を披露する。

演奏後、”ピアノを始めることにした”和音が「ピアニストになりたい」と確かな意思をもって宣言した。

彼女の母が苦心して放った「ピアノで食べていける人なんてひと握りの人だけよ」という言葉に対し、和音が返した場面。

「ピアノで食べていこうなんて思ってない ピアノを食べて生きていくんだよ」


ピアノを食べて生きていく、か。そうか。


ピアノで食べて生きていくよりも、幾分楽しく生きていそうな気がしました。

それは、ピアノが手段ではなく目的だから。


「これさえあればいい。」

主人公の調律師外村も、板鳥さんの調律を聞いて以来、同じことを調律に対して感じています。

作中で作村と高校生の双子和音と由仁が出会ったことは偶然ではなかったのでしょう。

私にも熱中できる何かがあったなら…

どんな毎日を過ごしているのだろうと、羨ましくなりました。


6.おわりに


以上、ざっくりとでしたが『羊と鋼の森』を読んで感じたことを書いてみました!

一度本や映画を読んだり見たりしたことがある方、本稿で興味をもって読んでみた方も、

ぜひ感想を共有できたらな、と思っているので、コメントいただけると嬉しいです。

それでは、また。


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