リスクという考え方と過去の決定への批判

最近、頓に驚くことは、少なくない人にはどうやら世界というものは確率論的世界というより、決定論的世界に寄っているという観測です。

というのも、様々な局面で、結果が出てから「あの決定は間違っていた」という批判を臆面もなく行う人を見かけるからです。

先日耳にした酷い話としてはファミレスで食事していて店内の別テーブルから聞こえてきた「○○が死ななかったから生命保険は払って損した」という耳を疑いたくなるような発言。

不景気の中で苦しい家計、といった背景があったかも知れませんが、保険を掛けて得られた安寧といった要素は都合よく忘れて、出た結果だけで過去の判断をアレコレ語るのには強い違和感を感じました。

当たり前なんですけど、現実というのは「流木やら生活ゴミやらが漂い、水は泡だったり濁ったりしている川を下る」ようなものでして、目の前に迫る事態をその場面ごとに限られた情報の中、左右どちらにどれぐらい回避するかを判断することが求められます。

急流を乗り切った後で、そのときは知り得ない追加情報を使って批判をしても意味はないんですけど、これを無自覚にやっちゃう人が多いんですね(情緒的には同情しますが、理性的には一切考慮するべきではありません)。

振ったサイコロの出目を見てから、サイコロを振るかを決められない

「サイコロを振って6の目がでたら掛けたポイントが5倍になる」ゲームがあるとします。このゲームに対して、サイコロを振るという決断をする人は一定数いるでしょうし、見合わないといって振らないという決断をする人も一定数いるでしょう。彼ら彼女らは立派です。

一方で出目を見てから決断を腐す人たちはいただけません。

物事を批判をするときは、サイコロを振った出目を見てから、遡って文句を言ってないかを自戒しつつ振る舞いたいものです(検証されないと高をくくって敢えてSNSで賢い自分を自己演出するという手もありますが……)。

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