短編小説:あるボクサーの証言

ファイティングポーズを取っていないときのおれの方が、おれは好きだ。

だが、おれにだって拳を握るときはある。というか、そうでないと生きてはいけない。なぜならおれはボクサーだから。


おれにはまだ誰も話していない秘密がある。

おれの握る拳の中にある空洞のことだ。外からは硬く握り締めているように見えるかもしれないが、内側には隙間がある。手の平で包んでいる秘密の空間があるのだ。

そこには誰も立ち入ることができない。誰にも立ち入らせてはいけない。

おそらくは小さな羽虫の一匹くらいなら紛れ込んでも生きていける。それくらいのスペースはある。でも何者もそこに立ち入らせてはいけない。虫だろうが微生物だろうが、そこは生きているものたちの居場所ではないんだ。


おれの拳の中をおれは見たことがない。その空洞がどんなものかも見たことはない。ほんとうの秘密というのは、自分自身にとってさえも秘密であるようなものなのだ。おれが見たことがあるのは開いた手の平だけで、閉じた手の内側に何があるのかをおれは知らない。

自分の身体なのに知らないところがあるなんて不思議な気がする。でもよく考えたら、例えば内臓にしたって同じことだ。心臓であれ、肝臓であれ、おれはおれの生きている心臓を、生きている肝臓を、直に見たことはない。死ぬまで見ることはないだろう。いや死んだ後でも見ることはない。

見えないけれど、そこにあるということは知っている。この世の多くはそういうものなのかもしれない。実際に見たことはないけれど、それが存在するという前提で生きている。身の回りにはそういうものが溢れている。

でも、見たことがないものについては、本質的に何も知らないんだとおれは思う。知るとは見るということだ。どんなものでも、実際に見て確かめない限り、そこにあるかどうかは最終的に確定しない。おれはそう思う。


ある日のリングの上で、おれは拳の中に奇妙なものを感じたんだ。拳の中の空洞に、誰も立ち入らせたことのない場所に、何かが紛れ込んでいた。それは確かな感触だった。大福のように柔らかく、でも柔らかさ以外は大福とはまるで似て非なるような、それは邪悪な塊だった。

試合中、その塊をおれは手の内に感じながら、なるべく触れないように、できるだけ拳の隙間を広げるよう努めていなければならなかった。もちろん試合は惨憺たる結果に終わった。そして試合後すぐにおれはグローブを脱いで手の平を確かめたんだ。しかし、そこには何もなかった。蒸気になった汗でふやけた、いつもの自分の手の平があるだけだった。

でも気のせいだとは思わなかった。そこにはたしかに何かがあった。試合後グローブを脱いだとき、内側の影の中へ隠れたのかもしれない。おれはグローブの中を覗いた。しかし何もない。もしかしたらグローブを手に取ったとき、地面に映った影の中へ紛れたのかもしれない。

その日もスポットライトが熱くおれを照らしていた。影は一層濃く地面に伸びた。眩しさから逃げるように、そいつは影から影へ飛び移るように逃げてしまった。そう思うと、私はなぜかそれを執拗に追いたくなった。その正体を暴きたくて仕方がなかった。しかし、結局見つからなかった。

それからはもう二度とその塊の存在を感じたことはない。もちろん見かけたことも。でも、あの日の感触だけは、今でも妙に覚えてしまっている。対戦相手の顔なんかもうとっくに忘れてしまったというのに。