3月22日(金)

最近、なんとなく調子が出ない。仕事は注意散漫で単純なミスを連発してしまうし、休日も無気力で家でひたすらぼーっとしてしまう。全体的に元気がない。覇気がない。

ひどかった腰痛もある程度は収まり、仕事も忙しさのピークは過ぎようとしている。まだ寒いが、じきに春は来る。ゴールデンウィークも近付いてきた。ふつうなら今こそ活気付いてきてもいいタイミングだと思うのだが、しかし、どういうわけか力が湧かない。

今朝、久しぶりに高校時代の夢を見た。試験まであと数ヶ月しかないのに、数学・物理・化学の試験範囲の勉強をほとんどまだ何も手を付けていない。そういう夢。焦りと不安と恐怖で目を覚ました。最悪の寝起きだった。

久しぶりだが、今まで何度も見た夢だ。しかし私も三十歳である。どうしてまだ高校の頃の夢を見なければならないのだろう。まだ私はあの頃に囚われているのだろうか。

夢の中で、私は留年している。高校三年生を二回やっている。試験に受からなければ来年もまた留年だ。試験に受からない限り、そこから永遠に抜け出すことはできない。永遠に。

永遠ということが恐怖を掻き立てるのかもしれない。

そういえば似たような夢を見たことが、昔、小学生の頃にもあった。ある日の夕方、私はコタツでうたた寝をしていた。夕飯の支度ができたことを知らせに姉が私を起こしに来たのだが、私はひどい悪夢を見ていて、姉に起こされると火が付いたように泣いてしまった。そのとき見ていた夢が、何者かにずっと縄跳びを跳ばさせられるというものだった。私は永遠に縄跳びを跳ばされ続け、それを止めさせることができない。起きてからも私は姉の膝の上でしばらく泣き続けていた。

あの夢はなんだったのか。何がそんなに恐ろしかったのか。きっとあのときも、永遠ということが怖かったのではないかと思う。終わりがないことを感じさせるものが恐ろしかった。大人になった今でこそそんな風に思うこともないが、心の奥で何が起きているのかは自分でも分からない。潜在的には恐れているのかもしれない。

そういえば、コピー機が故障してプリントが止まらなくなったときも泣いたことがあった。あれも小学生くらいの頃だったろうか。よく考えればけっこう泣き虫だったなあ。そのときも永遠に止まらないかもしれないということが怖くて仕方なかった。

他にも思い出す。昔、ファービーという簡単な言葉を喋る人形が流行った時期があった。我が家にも買ってもらったのだが、そのファービーが故障して「ぼく眠ーい」とか「ぼくお腹いっぱい」とか言うのが止まらなくなった。家の人に頼んで電池を抜いてもらったのだが、それでもまだ動き出しそうな気がして気味が悪かった。

何かを気味が悪いと思う感覚。そういう感覚は今でも私の中にあるだろうか。

ない気がする。そして、何かを気味が悪いと思うことがない代わりに、何かに心から感動するということもなくなってしまった気がする。そんなことでいいのか。いいはずがない。

喜びにしろ悲しみにしろ、怒りにしろ恐怖にしろ、心から何かを思う、本気で何かを思う、そういうことがなくなってしまった。それこそが今の私の問題なのではないかという気がする。

計画性、合理性、コストパフォーマンス。仕事も休日も放っておくとすぐにそういう思考に囚われて自由に動き出せなくなってしまう。内側から湧き上がってくる、意味の分からない、どろどろとした、名付けようもない、でもたしかにそこにある、そういうもの。なんだろう、むだ毛みたいなものかもしれない。抽象的な意味でのむだ毛。心の中に生えてくるむだ毛のようなものを一旦ちゃんと見ようじゃないか。今の私に足りないのはそういうことなんじゃないか。

むだ毛がない人間なんて、人間ではない。放っておいても毛は伸びる。しかし人間というやつは社会性という名の下にむだ毛を処理し、管理し、整えようとする。その執拗さ。神経質さ。支配欲。しかしそれでもむだ毛は生えてくる。切っても切っても生えてくる。必要かどうかも分からないのに。いや必要でないからこそ、むだ毛なのだ。そしてそれこそが生命の営みそのものでないかという気がする。

「人生において無駄な経験なんてない」「社会において無駄な人間なんてない」そういう言い方をする人がときどきいるけれど、「全てが無駄ではない」ということは、「全てが無駄」ということと同義のような気がする。「無駄なことなんてない」のだとすれば、「無駄じゃないことなんてない」ということにもなってしまう、というか。上手く言えないけれど。

無駄か無駄じゃないかはそんなに単純に決められない。一見無駄に思えるものも、違う角度で見たら無駄ではない。そういうことはよくあるし、逆に、何かにとって必要なものでも、より広い視点で見たら無駄、ということもある。