短編小説:西の村の伝承

「先生、先生」

私はすがるように先生を呼んだ。

「先生、先生。辛いのです。辛くてたまらないのです。

恋人に捨てられたときも、親友に裏切られたときも、これほどまでに辛いと感じたことはありません。

私が何か悪いことをしたと言うのですか。私はどうすればいいのですか。私には、もはや嘆く力さえ残されておりません。

どうか、どうか私をお救いください」

私はへたりと腰を降ろした。

私の目と鼻と口からは、それぞれ同じくらいの量の涙と鼻水と唾液が流れ出して混ざり合い、太い柱となって垂直に地面へと降りていった。

太陽は西へ傾きはじめた。夕陽に照らされた砂漠は黄金色に輝いている。辺りに生える何本かの立ち枯れた木々だけが、すべてを金色に染めようとする世界に抗うかのように、かぎ爪のような黒い影を四方に伸ばしていた。

二人の間を、風がゆっくりと吹き抜けていく。

「きみは」

と、先生が口を開いた。

「きみはこんな話を聞いたことがあるかね。西の村に古くから伝わる話だ。

昔、ある男がいた。その男はとても正直な男だった。

ある夜、男の家を一人の女が訪ねてきた。女は男に一晩泊めてくれないかと頼んだ。妙だと思ったが、男は受け入れた。女は感謝して、もう一つ男にお願いをした。決して部屋を覗かないように、と」

「その話なら存じております、先生」

私は先生の話を遮って、こう続けた。

「しかし男はその夜、約束を破って女の部屋を見てしまうのですよね。すると、女は異国の鳥に変身していて、自分の羽を使って着物を織っているという…たしかそういう話ではありませんでしたか」

「さすがによく知っているな。私の生徒だっただけのことはある。

しかしだな。じつは少し違うのだ。正確に言えば多くの場合それで正しいのだが、私の知る限り、西の村に伝わるものだけ話の成り行きが違うのだよ」

「と、言うと…」

私は地面から顔を上げ、先生の口がふたたび開くのを待った。

「ふむ、つまりこうだ。

西の村では、男は女の忠告を守り、女の部屋を決して覗くことなく一夜を過ごしたのだ。

女の部屋からは、夜中カタンコトンという妙な音が響いていた。音は次第に大きくなり、鈴の音や太鼓の音、人々のざわめく声なども混じるようになった。しまいには山中の村人たち、さらには獣たちまでもが酒を煽って宴会を開いているのではないかというほどの凄まじい轟音になった。

しかし、男は断じて部屋を覗かぬよう、布団をかぶり、枕を顔に押し付け、夜が明けるのをひたすら待った。万に一つでも覗くことがないように火箸で目を潰してしまったという話さえある。ともかくそのくらい固い意志で、男は女の願いを忠実に守ったのだった」

「それで、それで男はどうなったのです」

涙も、鼻水も、私の顔から流れ出た液体の類はとっくに乾いていた。というより、その頃になると私は先生の語る話になぜか強烈に惹きつけられ、それどころではなくなっていた。

「死んだのだ」

「し…」

私は硬直した。

「し、死んだって、どういうことですか」

「死んだのだ。それ以上でも以下でもない。

翌朝、近所の者が男を訪ねると、男は布団の中で硬くなっていたそうだ。火鉢に顔を突っ込んで固まっていたという話もある。見知らぬ女がいるなと思ったら、皮を剥がされ絨毯にされた男の上に座っていたという話もある。

類型はさまざまあるのだが、ともかく男は死んだのだ。西の村ではそう伝わっている。むろんただの伝承でしかないのだがね」

陽が沈むにつれて、地面に伸びる影は少しずつ長くなっていく。

ふいに、何者かに忍び寄られているかのような気配を感じて振り向くと、枯れ木の影が、あとわずかで届きそうになるほど伸び、私の背後まで迫っていた。

二人の間をふたたび沈黙が満たした。風はもうない。

「では、私はこれで…」

「いやちょっと待ってください、先生」

立ち去ろうとする先生を、私はふたたび呼び止めた。

「いや、今の話は、結局のところ何だったのですか。その話を通じて何を私に伝えたかったのですか。

死んだ?男が?正直だったからですか?正直者はバカを見るという話をしたかったのですか。

どういうことでしょう。それと私の訴えているこの辛さと、何の関係があるのですか。何をおっしゃりたかったのか、私にはさっぱり分かりません」

先生は黙ったままだった。歩みも止めず、立ち止まろうという気配すらない。

「先生、先生。お願いですから無責任なことはやめてください。私のこの痛みは、私のこの涙は、いったいどうなるのです。どうしてこんなに苦しまなければならないのですか。その答えはどこにあるのですか。

私には何も分かりません。私がこれほど辛いのも、その男がどうして死ななければならなかったのかも、私には分かりません。

教えてください、先生。私には先生が必要なんです。なんとか言ってくださいよ、先生」

黙って歩き続ける先生の肩に手を掛け、私は先生の横顔を強引に覗き込んだ。

そこにはひび割れた樹皮のように乾き切った先生の顔面があった。皮膚は腐食しはじめているかのように汚く崩れていた。その奥で、先生の一対の眼だけが、樹液に集まる甲虫の背中のように艶やかに光っている。

ギョッとして私は尻餅をついた。

気が付くと先生の後ろ姿は夕闇へ溶けるように消えていった。

私の目と口と鼻はまたそれぞれが分泌する液体で湿りだした。次第に痰の絡んだ咳も混じるようになった。頭も痛みはじめた。

夜が冷たい空気を運んでくる。風がそっと背筋をなぞると、全身の皮膚が不気味に粟立つのを感じた。

不吉な予感は現実のものになったのだ。もはや私はここ数日の間苦しみ続けてきた悪魔がまだ自分の内にいることを、認めないわけにはいかなかった。

私は大きく咳き込んだ。それが合図になった。

世界を闇が覆っていく。陽が落ちると辺りは一気に冷たくなり、風は轟々と音を立てて吹き荒れていった。もはやこの世界に私を歓迎する者など誰もいないのだ。