4月1日(月)

村上春樹の小説をオーディブルで聴く日々が続いている。いまは『ねじまき鳥クロニクル』の朗読を聴いている。今のところまだワクワク感のようなものはないけど、とりあえず、聴き流しながらも話に付いていくことはできている。

最初のニ分くらい聴き覚えがあったのは、冒頭だけは少し読んだことがあったからだろう。昔買った文庫本が家の本棚のどこかにあるはずだ。下手をすれば同じのが何冊かあるかもしれない。これまでに何度も読もうとして挫折してきた。今も朗読だからなんとか先に進んでいけるけれど、読めと言われたら無理だなと思う。

なんとなく、村上春樹の小説の主人公って受動的な人物が多いような気がする。男性の場合はとくに。いやそんなこともないのか。まだ数冊しか読んでいないから分からない。ともかく私は男性が主人公だとどうしても自分自身を重ねながら読んでしまう。そして「こいつは受動的なのになんか次々といろいろなことが起こっていいな」とちょっと思ってしまう。

例えば、飼っていた猫が迷子になって、路地裏を探すよう頼まれたらある人物と出会って…みたいなことが起こってくるのだが、そんなことはもちろん小説内だから起きるわけで、現実ではありそうもない気がする。いやそんなこともないのだろうか。もしかしたら、そういう偶発的な出来事は現実でもあちこちで起こっているのかもしれない。私の感度が低すぎてそれらをキャッチできていないのか、あるいは、私自身が無意識のうちに自分の世界からそういう偶発性を排除するよう仕向けているのかもしれない。偶然の出会いのようなものを。

でも実際、例えばふいに見知らぬ他人から声を掛けられたときなんかに、とっさにコミュニケーションを取るのはかなり困難だと思う。いつでもコミュニケーション可能な状態でいられるというわけじゃない。偶然性を受け止めるだけの準備がこちらになければならない。

数日前の朝、燃えるゴミを捨てるために近所のゴミステーションまで歩いていたときに、向こう側から私とほぼ同じ距離をほぼ同じ速度で歩いてくる人がいた。当然ながら私はその人とほぼ同じタイミングでゴミステーションにかち合うことになった。そしてどちらともなく「おはようございます」と挨拶を交わして、お互いそのまま来た道を帰っていった…。そういうことがあったわけだが、こういう何の変哲もない日常のワンシーンも、もしかしたら偶発的な出来事と言えなくもないのかもしれない。そこから何かの物語が転がり始まるような、何気ない日常が少しだけ面白くなっていくような、そういう可能性がどこかに含まれていたのかもしれない。

「あの人、向こう側から自分と同じくらいの速度で歩いてくるな」と思いながらゴミステーションへ向かっていく道中の、あのときのあのなんとも言えない気まずさは何だったのだろう。「きっとおれはあの人と同時にゴミステーションに到着することになるんだろうな」と思いつつ、歩きながら自分の中に少しずつ言葉を準備していく。向こうもおそらく自分の存在に気づいている。挨拶は「おはようございます」でいいだろう。だが、それをどのような態度・表情で発話するのが適切なのかは正解がない。出たとこ勝負みたいなところもある。頭はまだ寝ぼけていて、手に持った臭くて重い燃えるゴミをさっさと手放してしまいたいという思いもあった。

結果、モゴモゴっとした挨拶を適当に一瞬交わして何事もなく終わった。しかし、もしあるとすれば他にどんな展開があり得たのだろう。

たぶんだが、その人は初めて会う人だった。近所に住んでいるはずなのに、どうして今まで会ったことがなかったんだろう。今思うと、それが少し不思議と言えば不思議だった。そのときもうっすらと違和感のようなものを感じたような覚えがある。でもそんなこと、今こうして記憶を引っ張り出しながら書いていなければ、とっくに忘れていただろう。それくらい取るに足らない、本来ならわざわざ思い出す価値も意味もない、無意識に脳が無価値な情報として処理して消去してしまうような、それこそゴミのような記憶でしかなかった。

私は他人に関心がなさすぎるのだろうか。でもそんなところに鋭敏にアンテナを向けていたところでだからなんなんだという気もする。でもゴミ捨てのときに知らない人と会ったら気にする人もきっといるだろう。そういうことが自然と目に付く人というのはいる。ともすれば何言か言葉を交わして、相手の素性に探りを入れるようなことをする人もいるかもしれない。

きっと私はこの世界の細部にそれほど気を払って生きていないのだろうなと思う。無意識に受け取る情報を取捨選択をしている。そうすることで自分自身の生活のなかにある秩序のようなものを守っている。でもおそらくそれは同時に何かを切り捨てているということでもある。何かを視界から切り放し、見えないようにしている。

現実のなかで切り捨てているもの。それが何なのかは分からないけれど、小説のようなものにわざわざ触れたいと思うのは、どこかでそういうものを自分の内に取り戻そうとしているからなのかもしれない。