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無数の0

砂時計のあれは砂ではありません無数の0がこぼれているのよ  杉﨑恒夫
 
 私が「かばん」にデビューしたのは2009(平成21)年の4月号。杉﨑恒夫さんが逝去されたのは同年4月28日。5月号まで杉﨑さんの作品は掲載されていた。
 今から考えれば、たった二回とはいえ、杉﨑さんと同じ誌面に載った事実は貴重だ。ただ当時の私は、短歌についても、かばんの会についても、ほとんど何も知らなかった。杉﨑恒夫という存在も知らなかった。
 杉﨑さんの存在を意識し始めたのは、同年「かばん」12月号の追悼特集を見てからだ。翌2010(平成22)年の4月28日には「かばんBOOKS」として杉﨑恒夫第ニ歌集『パン屋のパンセ』(立花書林)が出版された。同書を読んでから私は杉﨑恒夫に夢中となり、現在にいたっている。
 やわらかく語りかけるような文体。宇宙・音楽・哲学につながる知的な題材。外国語の音を取り入れたスマートな修辞。老いを受け入れつつも逆手にとるユーモア。ものみなを大胆に擬人化する空想力。夢も宇宙も日常と一続きに描く自由さ。「死」を童話風に叙述する表現力。
 これらいずれもが私にとっては新感覚であり、短歌という詩型でここまで表現できるのかと目を開かせてくれた。当時の感覚は今も変わっていない。短歌や川柳をつくる前には『パン屋のパンセ』を読んで想像力にエンジンをかけている。
 掲出歌。「無数の0がこぼれているのよ」という表現に魅了されつづけている。砂時計は、砂の一粒一粒がこぼれ落ちることで未来の或る時点をめざしていく。これは砂が過去から押されて未来へすすむ構図だ。しかし見方を変えれば、未来の或る時点から砂の一粒一粒が引っぱられているとも言える。要するに、時間には過去からの方向と未来からの方向があるのだ。
 またこうも考えられるかもしれない。砂の一粒一粒は過去とも未来ともつながらず、絶対的な今として存在しているのだと。このように、砂の一粒一粒に過去―現在―未来の全体性を見出すとき、砂にはどこか無限としての性格、いわば「0」につながる性格が帯びてきはしないだろうか。
 砂時計を返すたび「無数の0」が時間を埋めていくのである。

初出 「かばん」2020年12月号
掲出歌は『パン屋のパンセ』(2010年、六花書林)より
※一部加筆修正しました