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はじめてのあい

今日『ファーストラヴ』を観てきた。

原作は珍しく発売されてすぐに読んだ。
もともと島本理生という作家さんはずっと追いかけてきた作家さんだった。
彼女の「リトル・バイ・リトル」がとても好きで、でもそれ以後この作品以上に好きになる話がなかった。それどころかちょっと苦手な作風だとさえ思っていた。のに、ずっと読んできた。ちょっとストーカーみたいに。
そんな長年の拗らせた執着みたいなものを抱えて読み続けてきた作家さんの、久々の自分的なヒット作だった。この「ファーストラヴ」は。

女子アナ志望の環奈は、画家の父親を刺し、茫然自失の状態で河原を歩いているところを発見保護され、その後殺人の容疑者として身柄を確保される。
彼女のことを取材することになった心理士の由紀。彼女を弁護する弁護人は彼女の夫の弟である迦葉だった。彼との間には、家族として以外の関係を過去に築いていた由紀は、環奈の過去を探りゆくうち、自分自身のなかのトラウマとも向き合うことになる。そして一度瓦解した迦葉との関係にも新しいひとつを積み重ねる。全身で自分に寄り添ってくれる由紀の存在に少しずつ心を開いていく環奈は、そして驚きの言葉を口にする。
彼女の犯した罪は、、、


映画を観終わって、そうだ私は小説を読み終わった時も同じことを考えたなと思い出した。
「ファーストラヴ」という言葉を聞いて、初恋だと勝手に考えていた。
でもこれはもっとそのままに「はじめての愛情」なんだと。
この物語の主人公の環奈と由紀は、家族に恵まれなかったひとたちだ。
たぶん、半分以上のひとにとって(これはただ私がそうであってほしいと思うだけだけど)はじめて愛情を与えてくれる人というのは、家族なんだと思う。
でもそれがうまく受け取れなかったり、与えられなかった人たちにとって、それを与えられたその衝撃は言葉にならないくらいのものだと思う。それこそ怯えて泣き出すくらい、怖いことのような、強いものだと思う。
このタイトルはそういう言葉なのかな、と勝手に思った。



物語の中で、環奈は何度も男性に傷付けれれる。
画家である父親がひらくデッサン教室で裸の男に挟まれて、男性ばかりの視線にさらされてモデルをしたこと。そこから逃げて心を開いた年上の男性に女として求められたこと。少し年齢を重ねて付き合った男性に暴力をふるわれたこと。その相談をしていた別の男性にも当然のように、流れで体を求められたこと。
公認心理士の由紀にも、幼い時分に負った男性、それも自分の父親によって負った傷があった。


ここから少し自分の話をしようと思う。
自分の中の、あまり人に話してこなかったこと。


映画のなかで、二人が互いの傷を理解し合う場面で、私は泣いた。
私は、男性を憎んでいると思う。男性、とひとくくりにしなくては姿勢が保てない気がする。
ここ何年か、ネットのなかで、女性の多くが遭った性的被害に声をあげるのを見てきて、ふと思い出した。
ふと思いだす、なんて笑ってしまうけれど、私はこの運動の記事を読むまで自分自身は性的被害にあったことがない人間だと思っていた。
私みたいな人間がターゲットにされるなんて、被害妄想だ、くらいに思っていた。
小学校の五年生の時、一人でモールの中の本屋さんに出かけていた私は、エレベーターの中で、家族と乗ってきた男性に体を触られた。
うわ。こんなやさしそうなひとが。小さな娘さんと奥さんと話しながら。
何食わぬ顔で降りていくのを見ながら、膝が笑っていた。怖かったし、ぞっとした。こんな子供触って楽しいのか、と、家族といるのに何してんだよ、と。
中学生の時、一人で帰っていた私の隣に一台の車が寄ってきて、窓があいた。なぜかよく道を聞かれるので、またかと思いながら運転手をみると、下半身が露出していて、自分の手で上下させながら、にやにやと私を見ていた。この時も、うわ、と思った。車はすぐに走り去って、それ以後見なかったけれど、その光景は今もはっきりと網膜に焼き付いている。残念な画だ。
17歳のとき、早朝のスーパーの清掃の仕事をしていた。朝の5時に自転車で仕事に向かっていたら、酔っ払いらしい男の人に横を通り過ぎる瞬間両手を振り上げて追いかけてこられた。全身の毛穴が開いて、すごい力で自転車をこいだ。酔っ払いだったからか、追いかけられたと言っても数メートルだったけれど、あんなに真剣に恐怖で逃げたのははじめてだった。そのことが尾を引いて、その仕事は辞めた。
今の職場で、酔っ払いの中年の男性に、それもよく来るお客さんに、後ろから抱き着かれて胸を触られたことがある。22か23か。笑いながら振りほどき、店長たちがいるレジ奥に逃げ込んだ。もう一人男性のスタッフがいて、どんな顔をしていたのか分からなかったけど、「どうしたの?」とびっくりしていたから、顔にでていたんだろう。恥ずかしかった。そんなことをしてもいい人間だと思われていると一緒に働いている人に言うことが。そして腹立たしかった。だからなんでもないことのようにこんなことをされたと言った。でもそれよりも腹が立ったのは、その男がその後も何度も店に来たことだった。ああこの男は大したことをしたとは思ってないのか。私が平気そうにしていたからか、その男が来てもレジに立つことがあった。事情を知っていた先輩が代わってくれたことはあったけれど、店長が配慮してくれたことはなかった。


もう一つ、私が男性を信用できない根底の出来事。
私の父親は、家のすぐそばの人妻と不倫し、一緒に暮らし始めても浮気し、そのあとも何度も繰り返していた。仕事だけは真面目にするひとだったけど。そんな父親の持っていた、所謂エロビデオというのを発見してしまったことがあった。見なきゃいいのに、見てしまった。小学校2年生のときで、親戚の家の二階のビデオデッキにそれを入れて、音量を最小にして。
その内容は、町で目をつけたお金持ちの家の女の子を、その日は親が帰ってこないのをいいことに仲間数人で襲いにいく、というやつで、泣きながら抵抗する女の子を笑いながら、取り囲む。うわー、と思った。
これ見てるのか。うわーっ。
自分の親だとか、そういう事よりも、男の人にはこんなものが面白い、気持ちいい、そういう人が、そういう心があるんだということが、自分に染みこんだ出来事だった。そのビデオはちゃんともとのところに戻しておいたけれど、引っ越すたびに親の部屋を探して、探し出せたことにまたうわーっとなった。
一番うわー、と思ったのが、その女の子たちが、本当に幼い、セーラー服とか着てるような、年齢の女の子だったから。

男性、とくくるべきじゃない。みんながそうではない。
そんなことは分かっているのだけど、私にも大好きな性別が男の友達はいる。あの子たちのことですら、最初はそういう目でみた。
この生き物は、ある時突然危害を、それも自分の価値をゴミのように、あってないようなもののように、踏みつけて、ぐしゃぐしゃにその足の下に汚しては、それに愉悦するような類の危害を加えてくる可能性がある。
そんなふうに思っていた。それが今じゃ、心から信頼できる人間になった。あの子たちに会えてなかったら、たぶん今より嫌な顔をしていただろうと思う。

自分の子供が男の子だと知った時の絶望感も、ここからきてると思う。
申し訳ないけれど、この子たちがいつか誰かを傷つけるのではないかと、今も怖い。そうならないように、できることをするけれど。


そんな私は、映画を観ながら、彼女たちが「あなたが悪いのではない」「あなたは守られるべきだった」と口に出してもらい、そして「心から愛して、抱きしめてもらいたいと思う人に出会えた」ことが心から嬉しかった。

物語の中の彼女たち。
彼女たちを通して、自分のなかのいつかの自分に言ってもらえたような気がした。
私も、彼女たちも、ずっとこのいつかの自分と生きていく。
それがどうしようもなく思える時もあるけれど、こうして時折誰かの顔を、声を借りて、抱きしめてもらうことが思いもよらない慰めになる。

私はもう自分がそういうことをされても仕方がないとは思わない。

できるなら、誰もそう思うことがない、そんな夜がきたらいい。
それが無理なら、誰にも必ず寄り添う人がいることを。

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