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義仲旗揚げ、しかし世は養和の飢饉で  吾妻鏡の今風景26

信州依田。長野県小県郡丸子町(上田市丸子町)は、R245(R152)とR18、そして千曲川からも近い、交通の要所であったと思われる。

 依田荘を治めていた依田次郎実信が木曽義仲を城に迎え、治承四年(1180年)十一月、義仲旗揚げ。つまり頼朝の石橋山の3カ月後のことで、富士川の戦いののち、頼朝が金砂郷城で佐竹秀義を追い詰めていた頃になる。

 依田次郎の父の依田為実の母(つまり依田次郎の祖母)は、源義賢(義仲の父)の娘、という記載があるらしい。となると義仲は祖母の弟。義仲は父の義賢が老年になってからの息子ではあるが、依田次郎の母が義賢の娘の可能性もあるように思える。が、いずれにしろ、依田次郎は義仲の縁続きの者であったということにはなるのだろう。


 R254を走って信州上田丸子町御獄堂へ。依田城があった場所。依田城は山城で、あたりを見回せば、あれは湯の丸峠か、それとも菅平か?と思える山並が広がり、下を流れる依田川は千曲川に注いでいる。
 丸子から砂原峠を通って信州別所温泉へと至る道。広いとはいえないが、乗用車が通るには問題ないぐらいの道幅があり、大型トラックは見かけなかったが、ベンツが通って行ったのは見たので、荷駄(小荷駄)が通るには問題のない道幅。





 依田城近くから湧く「正海清水」。義仲の息子の義高が清水冠者義高と呼ばれるようになったのは、この正海清水の地で生まれ育ったためであるとする。義高の母親は中原兼遠の娘(今井四郎兼平の妹の巴御前)とされるが、もしかしたら依田の娘であったのかもしれない。


 義仲のもとに集ったのは、義仲の育て親である中原兼遠の息子、樋口次郎兼光、今井四郎兼平。そして根井行親、楯親忠。信濃一帯の豪族、「滋野三家」と称される海野氏、根津氏、望月氏。

 野木宮合戦(のぎみやかっせん)は、『吾妻鏡』によれば治承五年(1181年)閏二月二十三日。つまり、治承五年(1181年)閏二月四日の平清盛死去のすぐあとで、野木宮合戦に敗れた志田義広が義仲を頼って信州に身を寄せる。

野木宮からR125で熊谷、そこから東松山へ、R254に入って大蔵館に立ち寄り、さらに山越えして佐久を抜けて信州依田へ。車がそれほど混まない平日の昼間、時速40キロぐらいで下道を延々と走り、途中、休憩を含めて(ガソリンスタンド併設のコンビニでコーヒーとかドーナツとか)、6時間ぐらいかかるのか。平安時代末期、馬で関東から信州まで行ったとしたら、こんな感じだったのかね。(私は、途中で道の駅に寄って車中泊しましたが。)
          
治承五年三月の墨俣川の戦いでは、頼朝の異母弟の義円が戦死、敗れた行家は、鎌倉の頼朝のところに身を寄せるが、相模国松田の所領を得られずに、義仲の下に走る。

 後白河法皇は閏二月のうちに城資永(助長)に木曾義仲追討の命を下すが、資永が急死、その弟の長茂(助職と名乗っていたこともある)が家督を継いだ。

 治承五年(1181年)六月、義仲は海野宿の白鳥河原に兵を集結。
 千曲川を下り、横田河原(川中島近く)において平家方の城長茂と対戦。義仲軍は千曲川対岸から平家の赤旗を用いて渡河接近するという奇策を用いて勝利。
(注・『吾妻鏡』にはこれは寿永元年(1182年)十月のこととされ、『玉葉』では治承五年(1181年)六月となっている。)

 治承五年六月といえば、スーパーノヴァ1181が夜空に出現した頃ではありませんか! 
 




 
 義仲は妙高関山に入り、妙高山に阿弥陀三尊を納め、そして城長茂が居住していた越後蒲原郡白河荘(新潟、三条、弥彦のあたりになるのか)をめざし、肥沃な越後平野の収穫をも兵糧として手に入れたのだろう。

 安徳天皇即位により治承五年(1181年)の秋七月に「養和」に改元。といっても、源氏方が「養和」の元号を使用することはなかったが、前年からの旱、戦乱による食糧危機は「養和の飢饉」と呼ばれる。
 「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」と鴨長明は記している。
 旱、台風、洪水で五穀が実らず、地方からの収穫に頼っていた京の都では食糧難に陥って4万人の死者が出たとしている。

 といっても、京の御所では貴族たちが贅を尽くしていたのだろうけれど。

 飢饉、戦乱を理由に、「養和」は養和二年(治承六年)五月(1182年)で終わり、寿永に改元。

 越中に進軍していた義仲を、突然、頼朝が攻める。なぜに源氏同士でうちわ揉め? 義仲は善光寺平に戻って陣を敷き、両者にらみ合いの末に、寿永二年(1183年)三月、義仲が義高を鎌倉へ人質として送り、和議成立。頼朝は志田義広と行家を鎌倉に引き渡すように要求したが、義仲はそれを拒み、代わりに息子の義高を差し出した。
(注・この頃、善光寺はすでにあったが、治承三年に落雷によって炎上したので、善光寺の建物はなかった。のちに頼朝によって再建される。)

 寿永二年五月、義仲は倶利伽羅峠で平家を破り、七月二十五日、平氏は安徳天皇を擁して西国へ逃れる。(そして平家が再び京へ戻ることはなかった。)
 入れ替わるように、七月二十八日、義仲入京。
 義仲は朝日将軍と称され、この頃がまさに義仲の絶頂期であった。
 都の貴族は、こぞって義仲にこびへつらうが、蔭では義仲を田舎者として蔑んでいた。「平家物語」には、いかに義仲が野卑で無教養であるかが書き連ねてある。
 しかし、野卑であるかないか、などよりはるかに深刻な問題が起こっていた。義仲の軍勢が京に入っために、京の厳しい食糧事情がますます逼迫していくのであった。   (秋月さやか)


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