Akizukisayaka

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Akizukisayaka

占術関連の執筆者です。Facebook等へ投稿した吾妻鏡関連の記事をまとめながら、文章修行のつもりで。平安時代から鎌倉時代にかけての暦占と妙見信仰もテーマの1つ。 ただし私は古文が苦手。漢文は読めるので吾妻鏡はOKですが、くずし文字が読めない。日本語なのにね~。

最近の記事

義経の妻妾たち 義経の最愛の女(ひと)は誰?   吾妻鏡の今風景32

 京の堀川館には、白拍子の静、義経の正室の川越の娘の郷、さらに、平時忠の娘、蕨。  義経の妻妾として名が伝わるのは、静、郷、蕨の3人。しかし都の公家が、義経のところに娘を送ってよこさないわけがないので、あと数人ぐらいはいたのだろう。一説には義経は京で24人の女性と関係があったといわれ、これはかなり盛った話だとしても、とにかく3人だけだったとは考えにくい。    この3人以外に、義経と恋人関係にあったとされるのが皆鶴(みなづる)。  皆鶴は陰陽師の鬼一法眼の娘。鬼一法眼は『六韜

    • 堀川夜討、土佐坊昌俊と金王丸の謎     吾妻鏡の今風景31

       鎌倉に入れなかった義経は、宗盛を連行して再び京へ戻っていった。それが六月九日、その12日後の元暦二年六月二十一日、近江国篠原宿で宗盛斬首。    元暦二年七月九日(1185年8月6日)午の刻、京で地震。(この天変地異により、翌月八月十四日に元号が文治に改元されたので、この地震は文治地震と呼ばれる。元暦のうちに起こったのに。)  平家の祟りではないかと人々は恐れ、陰陽寮は、正しい政治がなされていないことを諫めるために天がもたらした地震と占ったらしい。陰陽寮、ずいぶんと強いこと

      • 腰越状、ギフテッド義経の自己主張文  吾妻鏡の今風景30

         壇ノ浦の合戦が終わり、義経は京に凱旋。後白河法皇は、義経と御家人たち24名を任官させた。頼朝は朝廷からの任官を勝手に受けた(自由任官)御家人たちに怒り、書状を送り付けた。つまり、  「では京で頑張れ。墨俣よりも東には二度と足を踏み入れるでない。(鎌倉にはもう帰ってこなくてよろしい、オマエはクビ。)」という意味の書状に、さらに御家人たち各々に批判めいたコメント文を追加した。いやそのコメント文がですね、あまりに面白いので、原文、探してみました。    義経に従っていた佐藤忠信に

        • 源平合戦ラストステージ、壇ノ浦の合戦   吾妻鏡の今風景29

           一の谷の合戦後、平氏軍は瀬戸内海を西へ。水上での戦いは源氏にとっては(三浦以外は)不得手。なによりも源氏軍には船がない。    義経は、摂津の水軍渡辺党と熊野水軍、伊予水軍を味方につけた。熊野水軍の別当、湛増(たんぞう)はもとは平氏方であったが、神前で紅鶏(平氏の旗色)と白鶏(源氏の旗色)を闘わせて神意を占ったところ、白鶏が勝ったので、源氏方へ加勢することにしたという。ただし、湛増は弁慶の父であったという言い伝えがあり(つまり弁慶は湛増の息子)、その真偽はよくわからない。

        義経の妻妾たち 義経の最愛の女(ひと)は誰?   吾妻鏡の今風景32

          義経のデビュー戦、一の谷への奇襲  吾妻鏡の今風景28

           義経、範頼の源氏軍は、都落ちした平家を追いかけて西へ。いったんは瀬戸内海を西へと逃げた平家軍であったが、瀬戸内海を制圧して数万騎の兵力を回復し、福原に集結。いまや、京を奪い返さん勢いであった。  そして寿永三年(1184年)二月七日、一ノ谷の戦い。  一ノ谷は、地図で見るなら福原よりも西、その背後は断崖絶壁で、海から攻めるしかないという場所。しかし平家軍の守りは堅く、海から攻めるのは難しい。そこで、源氏軍は、一の谷の背後の崖から攻める奇襲作戦を決行する。  『平家物語』に

          義経のデビュー戦、一の谷への奇襲  吾妻鏡の今風景28

          朝日将軍義仲、日蝕に慄き斃れる   吾妻鏡の今風景27

           京へ上った義仲は「朝日将軍」と称される。対する後白河法皇はといえば、陰謀という衣を纏った闇の帝王(ボスキャラ)のごとし。    後白河法皇は、陰で内密に頼朝との交渉を進め、頼朝は院の使者に大量の貢物を持たせて送り返す。もちろん食糧も。金と食べ物に目が眩む後白河法皇。京の公家や皇族たちは、地方からの租税という貢物で暮らしている身分であり、つまりはパラサイト・・・(以下自粛)    義仲が平氏討伐に西国へと向かっている間に、後白河法皇は、頼朝に東国の支配を任せる宣旨を下し、上洛

          朝日将軍義仲、日蝕に慄き斃れる   吾妻鏡の今風景27

          義仲旗揚げ、しかし世は養和の飢饉で  吾妻鏡の今風景26

          信州依田。長野県小県郡丸子町(上田市丸子町)は、R245(R152)とR18、そして千曲川からも近い、交通の要所であったと思われる。  依田荘を治めていた依田次郎実信が木曽義仲を城に迎え、治承四年(1180年)十一月、義仲旗揚げ。つまり頼朝の石橋山の3カ月後のことで、富士川の戦いののち、頼朝が金砂郷城で佐竹秀義を追い詰めていた頃になる。  依田次郎の父の依田為実の母(つまり依田次郎の祖母)は、源義賢(義仲の父)の娘、という記載があるらしい。となると義仲は祖母の弟。義仲は父

          義仲旗揚げ、しかし世は養和の飢饉で  吾妻鏡の今風景26

          ウルフスレイヤー義仲誕生の地、鎌形 吾妻鏡の今風景25

          源(木曾)義仲は、頼朝の従兄弟にあたる。頼朝の父の義朝と、義仲の父の義賢(よしかた)が母違いの兄弟なので。 太郎義朝の母は公家の藤原忠清の娘、次郎義賢の母は六条大夫重俊の娘。いずれも京にいて朝廷に関連していた家の娘であった。そして、次男の義賢のほうが、出来はよかった。なにせ就職先が東宮警護。しかもその長官である帯刀先生(たちはきせんじょう)として活躍。先生(せんせい)ではなく、先生(せんじょう)と読みます。そう、源三郎義広(みなもとのさぶろうよしひろ)も、この職についていた。

          ウルフスレイヤー義仲誕生の地、鎌形 吾妻鏡の今風景25

          スーパーノヴァ1181と、養和の飢饉   吾妻鏡の今風景24

          治承五年六月二十五日(1181年8/7)、ユリウス暦なので、8/7といっても立秋過ぎて数日たった頃になると思われるが、夜空に新超星が出現した。 「戌尅 客星見艮方 星色靑赤有芒角 寛弘三年出見之後無例云々」『吾妻鏡』 戌尅とは戌の刻、夕方19時から21時ぐらい。客星(いつもはいない星)が艮の方(北東)に見え、それは土星のような色で、赤と青の尖った光があった、と記されている。 これがSN1181(超新星1181)。SNって超新星(super nova)のことで、1181年に観測

          スーパーノヴァ1181と、養和の飢饉   吾妻鏡の今風景24

          江の島(榎島)の弁財天と、北条のミツウロコ  吾妻鏡の今風景23

          治承五年四月五日(1182年5/19)、『吾妻鏡』によれば、武衛(頼朝)は榎島へと出かけた。供は、北条時政、足利冠者、新田冠者、畠山次郎、結城七郎(朝光)、上総権之助(広常)、土肥次郎(実平)、佐々木太郎定綱、和田小太郎義盛、三浦十郎義連(佐原)、佐野太郎(基綱)、エトセトラ、大河ドラマさながらのメンバー。   榎嶋(えのきじま)とは江の島のこと。榎(えのき)は、湘南、三浦半島に多く見かける樹。キノコじゃないよ樹木。エノキダケ(キノコ)は、枯れた榎の根元に生えたのでエノキダケ

          江の島(榎島)の弁財天と、北条のミツウロコ  吾妻鏡の今風景23

          東国は、なぜ吾妻(あづま)なのか  吾妻鏡の今風景22

          『吾妻鏡』とは、「東鑑」と表記されることもあり、吾妻(あづま)は東(あづま)、東国。鏡は鑑(かがみ)で手本や模範。となると、東国の手本となるような公式記録・・・いや、手本にしてはいけないような内容もあったりはするが。鏡が本性を暴く呪具であると考えるなら、真実の記録というような意味になるのだろう。   では「東」はなぜ(あずま)なのかといえば、東の地を吾妻(あづま)と称したことが語源。しかし吾妻を直訳すれば「吾が妻(我が妻)」→My Darlingで、それは『古事記』に記された

          東国は、なぜ吾妻(あづま)なのか  吾妻鏡の今風景22

          野木宮合戦、範頼デビュー! 坂東武者のR125  吾妻鏡の今風景21

          野木宮合戦(のぎみやかっせん)は、下野国の野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で、源(志田)義広と、小山朝政(頼朝側の軍勢)がぶつかりあった合戦。『吾妻鏡』によれば治承五年(1181年)閏二月二十三日。野木宮合戦は一般的には寿永2年(1183年)2月23日とされるが、ここでは吾妻鏡の記載に従う。治承五年は、寿永2年よりも2年早い。 さて、源三郎義広(みなもとのさぶろうよしひろ)は、源為義の三男。すなわち頼朝の父の義朝の弟で、頼朝の叔父。かつて帯刀舎人(たちはきのとねり)の職にあっ

          野木宮合戦、範頼デビュー! 坂東武者のR125  吾妻鏡の今風景21

          福原遷都を咎める怪異と、清盛の遺言  吾妻鏡の今風景20

          治承五年、閏二月十九日。頼朝は清盛死去の知らせを受け取る。 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。」 清盛が世を去ったのは治承五年閏二月四日。これはユリウス暦で3月20日、しかし1181年の春分はユリウス暦の3月20日よりも1週間ぐらい前だったので、今の暦でいうなら3月27日頃。いずれにしても桜の花は咲いていたに違いなく。しかしその心境は「願わくば花の下にて春死なん…」という西行法師

          福原遷都を咎める怪異と、清盛の遺言  吾妻鏡の今風景20

          常陸国金砂城の戦い、行年衰日ノープロブレム!  吾妻鏡の今風景19

          富士川の戦いに勝利した源氏軍。頼朝はこのまま京へ一気!と意気込むが、まずは関東を平定することが先でござる、との上総広常たちの提言に従うことに。相模国の国府(注・余綾郡、現在の大磯町本郷、つまり大磯ロングビーチ、旧吉田茂邸付近)で論功行賞を行ったのち、常陸国へと進軍。 治承四年(1180年)十月二十七日。お日柄はといえば、頼朝の衰日(行年衰日)にあたっていた。陰陽道の行年衰日は本人の年齢によって決まる。頼朝、生年が久安三年(1147年)、治承四年(1180年)には数え34歳。

          常陸国金砂城の戦い、行年衰日ノープロブレム!  吾妻鏡の今風景19

          武田氏のルーツ武田館(常陸国)を訪ねる    吾妻鏡の今風景18

          富士川の戦いの源氏側の勢力は、武田軍(甲斐源氏)+頼朝連合軍。甲斐源氏もまた、以仁王の令旨によっての挙兵であった。甲斐源氏の頭領は武田太郎信義(たけだたろうのぶよし)、新羅三郎義光の曾孫。 なお、武田信義は源清光の次男であるが、双子の兄の逸見光長とともに太郎を名乗ったとされる。 出生は大治三年八月十五日(1128年9月11日)、『尊卑分賑』によれば「逸見冠者清光の子也、逸見太郎光長同日同胞二児出生、ヨッテ両人共、太郎ト号ス、逸見太郎光長ハ巳時、信義ハ午刻誕生」。つまり、光長

          武田氏のルーツ武田館(常陸国)を訪ねる    吾妻鏡の今風景18

          黄瀬川の兄弟対面、頼朝の兄弟たち  吾妻鏡の今風景17

          黄瀬川(木瀬川)は、御殿場から沼津に向かって北から南へ流れ、旧東海道は三島を東西に走り、黄瀬川と旧東海道が交差するところに黄瀬川橋がかかっている。 (注・旧東海道は、三嶋大社の前を通る県道145。旧東海道と平行して走る県道380は旧国一通りと呼ばれるが、平安時代の旧東海道ではない。) 平安時代末期、黄瀬川に橋はなく、渡し場があった。黄瀬川橋の東側に黄瀬川八幡があり、そこが富士川の合戦における頼朝軍の本営。 富士川の合戦ののち、義経が駆けつけ、兄弟の対面。有名な兄弟対面の舞台で

          黄瀬川の兄弟対面、頼朝の兄弟たち  吾妻鏡の今風景17