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はじまりは治承四年、伊豆国北条館  吾妻鏡の今風景01

『吾妻鏡』は、鎌倉幕府について記されたオフィシャルな歴史記録書で、読み物とはいえず、読んでいてそれほど面白いというわけでもない。が、時々、重要なことが書いてあったりする。あらかじめ『平家物語』あたりを読んでから、であれば、へえ、そんなことが、とか、あの時はこうだったのか、とかいう発見もあったりするので、なかなかに興味深い。

韮山周辺の地図

さて、『吾妻鏡』のはじまりは、治承四年(1180年)四月二十七日。以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を携えて、十郎行家が伊豆国の北条館を訪ねる場面からとなる。
 
以仁王とは誰かというと、後白河天皇の第三皇子。第一皇子は守仁親王(後の二条天皇)で、第二皇子が守覚法親王(しゅかくほっしんのう)、そして第三皇子が以仁王。
守仁親王(二条天皇)は、康治2年6月18日(1143年7月31日)生まれ、守覚法親王は久安6年3月4日(1150年4月3日)生まれ。と、生年月日判明。が、以仁王は仁平元年(1151年)に生まれたことがわかっているだけで、詳しい月日は不明。このあたりからしてもう、上の2人とは扱いが違う、ということがわかる。
3兄弟は仏門に入るが、のちに守仁親王は還俗し、父である後白河天皇からの譲位をうけ践祚(つまり即位)。しかし数え23歳で崩御。
以仁王は天台座主最雲法親王の弟子となるが、師匠が世を去ったことにより還俗。二条天皇崩御後、皇位継承における有力候補となった。
が、異母弟である憲仁親王(第七皇子)が、高倉天皇になり、さらには治承4年2月、高倉天皇(たかくらてんのう)が譲位して安徳天皇が即位。安徳天皇、即位時に数え3歳とあるが、満年齢では1歳2か月の乳児で、幼帝の補佐役は平清盛であった。

守覚法親王は仁和寺御室(門跡)となって言仁親王(安徳天皇)誕生の際には出産の祈祷を行っているので、平家派であった。しかし以仁王は(天皇になれないばかりか)「治承三年の政変」で、平清盛により知行を没収されてしまう。平家の横暴、許すまじ、以仁王、怒る。で、源頼政のアドバイスに従って、源氏一族に「以仁王の令旨」を発する。平家を追討せよ!

令旨(りょうじ)というのは、皇太子、三后、親王など皇族からの命令書であるが、以仁王は親王ではない。親王宣下を受けていなかったので。従って、これは令旨ではなく、正確には御教書(みぎょうしょ)だと、歴史に詳しい方からのツッコミが入りそうですが、令旨(りょうじ)と呼ぶのが一般的なので。(吾妻鏡にもそう書いてあるので。)

政子産湯の井戸の近く

この「以仁王の令旨」を、伊豆の頼朝のもとに届ける役割を仰せつかったのが、為義の十男、行家(ゆきいえ)。為義は頼朝の祖父なので、行家は頼朝の叔父にあたる。
 
頼朝は、平治の乱(1160年)で父の義朝とともに戦って敗走、平家方に捕えられて死罪となるところを、平清盛の継母であった池ノ禅尼の命乞いで、京を百里ほど離れた伊豆へ流されたのが13歳。
配流の地は伊豆の蛭が小島と記されている。歴史ドラマなどにたびたび登場する地名であるが、これが正確にどこであったのか、はっきりとはわかっていない。小島といっても、それは海の中の小島ではなく、湿地の中に盛り上がった一帯のことであったらしい。たぶんこのあたりであったのだろう、と推測される場所は静岡県伊豆の国市四日町。韮山駅からすぐ、現在、蛭ヶ島公園として整備されている。ただし、そこに建っている住居跡は当時のものではなく、江戸時代の農家の移築ですが。もしもここが本当に流人の頼朝が住んだ地であったとしても、当時の粗末な庵が800年もの風雨に耐えられるわけなどないので。

蛭が小島一帯は、昔は湿地帯であったと思われるが、その後、灌漑が進み、現在は立派な田畑が広がる。ビニールハウスがたくさん並び、首都圏へといちごを出荷する産地でもある。近くにあるJA韮山では、地場産の農産物を売っていて、いちご、トマト、ズッキーニ、にんじん、いんげん、などなど。私はよくJA韮山に立ち寄って野菜買いますが、昔は作物なんか作れない場所だったんだろうね。

しかし。湿地の中とはいえ、なんと素晴らしい地へ配流になったものか。左手に富士山、右手に箱根。たとえ粗末な庵でも、景色は最高!
このような風景を日々眺めていたなら、それこそ広い視野で世の中を考えるようにもなるに違いない。京の都で起こっている権力争いは、結局は世間知らずな天皇貴族たちの身勝手が引き起こしたいざこざで、そのたびにボディガード役の武士が命を落とすというのは、よく考えてみれば割の合わない話ではある。そんな理不尽を、できればどうにかしたい。頼朝がそう考えるようになったとしても不思議はない。


蛭ヶ島公園に建っている茶屋は800年前のものではありません。
伊豆箱根鉄道。韮山駅近くの踏切から

以仁王の令旨を、頼朝は北条館で受け取った。つまり頼朝は(蛭ヶ小島の庵ではなく)北条氏の婿となって北条館で暮らしており、大姫が誕生していた。頼朝34歳、政子24歳。頼朝はまだ旗揚げしておらず、流人の身分のままであった。マスオさん状態どころか、完全に居候。が、北条時政は頼朝を旗印にすると決めていたのだろう。

からす座が写っております。スピカも。

北条館はどこかというと、蛭ヶ小島から1.5㎞ほど西。現在の静岡県伊豆の国市寺家。蛭ヶ小島からは、伊豆箱根鉄道を越えてR136を越え、蛇のように曲がりくねった狩野川のほとり。現在、北条館があったとされる場所にそれらしい建物は残っていない。かつては円成寺という尼寺があり、北条氏の菩提を弔っていたとされるが、今は、ほとんど原野になっている。

住宅地の中にある井戸

近隣の住宅街の中に「尼将軍北條政子産湯之井戸」の碑と井戸跡があるが、一般住宅が建ち並ぶ中に紛れてつい見過ごしてしまいそう。井戸の石造りの部分は、江戸時代以降に加えられたものだそうだが、800年たった今も、まだ水を汲むことができるらしい。 
     (秋月さやか)



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