見出し画像

スーパーノヴァ1181と、養和の飢饉   吾妻鏡の今風景24

治承五年六月二十五日(1181年8/7)、ユリウス暦なので、8/7といっても立秋過ぎて数日たった頃になると思われるが、夜空に新超星が出現した。
「戌尅 客星見艮方 星色靑赤有芒角 寛弘三年出見之後無例云々」『吾妻鏡』
戌尅とは戌の刻、夕方19時から21時ぐらい。客星(いつもはいない星)が艮の方(北東)に見え、それは土星のような色で、赤と青の尖った光があった、と記されている。
これがSN1181(超新星1181)。SNって超新星(super nova)のことで、1181年に観測されたので1181。しかし、新しく生まれた星ではなく、恒星がその一生の終わりに大爆発して明るく輝く星のことなので、ちょっと切ない。super nova(スーパーノヴァ)、そのまま検索しますと、まったく違うものが出ますので、要注意。
 
藤原定家の『明月記』にも、「治承五年六月廿五日 庚午戌時客星見北方 近王良守伝舎星」とあり、客星は王良の伝舎星近くにあったとある。王良は中国星座、伝舎星はカシオペアε(エプシロン)のあたり。ちなみに、中国星座にカシオペア座というのはありません。

2022年の撮影。治承五年ではありませんので。白気はアンドロメダ大星雲のこと

『吾妻鏡』では、これは寛弘三年以来、例がないことだとしているが、寛弘三年は1006年なので175年前。定家も『明月記』にそんなことを書き記していたかと思うが、陰陽師の安倍泰俊(やすとし)から、昔の記録にそんな星があったということを聞いたらしい。すでに京では、客星について話題になっていたのだろう。
 
「なんや、けったいな星なあ」「きしょいわ、おお怖」とかなんとか言いながら、寺社では祈祷を行い、怪しげな護符を売りつける法師もいたのかもしれない。
藤原定家は、よく夜空を眺めていたのか、しかし、月を詠んだ歌はあるけれど、客星を詠んだ歌はない。SN1181で、一首詠んでおいて欲しかったわ。

日本国中で、人々が夜空を見上げていた。「おとろしか星たい」「まっさかたまげた星じゃな」「ばばい星じょ~」「でらおそがい星だがや」、「げに恐ろしき星なり」「おっかねえ星だっぺよ」「まんずおっどろしい星だなし」、とかなんとか。

いや、日本だけではない。SN1181は、中国、宋、金の記録にも登場する。それによれば、奎宿にあらわれたとある。奎宿は二十八宿の奎宿で、伝舎星も、華蓋も奎宿のエリアにある。伝舎星(εカシオペア)と華蓋の間ぐらいに出現したとあるので、かなり北極星に近い。
そして約185日間に渡って夜空に見え、年が改まったあたりで消えたとある。つまり、立秋から翌年立春の頃までの約半年間、夜空に輝いていたということになる。

 日本、中国だけではなかった。イギリスでは、サイレンセスター修道院長のアレクサンダー・ネカムが、この星を観測していたらしい。となれば、記録には残っていないとしても、北欧でも、中東でも、ゴビ砂漠でも、ヒマラヤの麓でも、さらには、イエローストーンの山奥でも、チチカカ湖のほとりでも、この星を眺めていた人たちがいるのだろう。
 
その見慣れない光は、天変地異の前触れなのかと人々を恐れさせたに違いない。それが天の北極近くで起こったなら、紫薇宮(宮殿)の中で変事が起こることを告げるので、政の中枢が揺らぐと天文官は上奏するだろう。
天体を観測し、地上の出来事を読み取る。古来、占星術とはそういうものであった。そして客星があらわれたなら、変事が起こる。
SN1181のように、恒星爆発による超新星だけでなく、太陽系の外からやってくる彗星も客星。有名どころではハレー彗星。客星といっても、定期的に巡回訪問するお客様であるが。
天体は、規則正しく動いていくのがよいことであり、いつもと違うことが起るのは凶意。たとえば火星の逆行とか、日蝕とか月蝕とか、木星土星の会合とか、すべて凶事の前触れとなる。

2020年暮れの光景。富士山麓で撮影。富士山は、右の方で写ってません。

鎌倉幕府の始まりの頃にも、すでに陰陽師もしくは神官はいた。政には必須。まずは藤原邦通(ふじわらのくにみち)、都からの遊歴中に伊豆を訪れ、頼朝の旗挙げ直前、安達盛長の推挙で頼朝に仕えた。
佐伯昌長(さえきまさなが)は筑前国住吉神社神主佐伯昌助の弟で、兄昌助の伊豆国への配流に同行して伊豆にいたところ、頼朝に仕えることになった。永江頼隆 (ながえよりたか)は伊勢神宮神職の子孫で、どのような経緯かはわからないが、石橋山から付き従っていた。
そののち、都から呼びよせたのだろう、安倍親職という陰陽師がいたらしいことはわかっている。四代将軍の頃になると、宿曜師もやってきて星供養を執り行ったりしており、『吾妻鏡』には、天変の記録も多い。
 
さて、ほどなく元号が養和(ようわ)になる。これは安徳天皇践祚による改元で、彗星があらわれたという天変での改元ではなかったとされるが、しかし、客星出現から1カ月もたっていない。
ただし、源頼朝の源氏方では養和の元号を使用せず、治承を引き続き使用していた。
養和はいろいろな意味で不運な元号であったといっていいかと思う。1181年の晩夏から翌年初夏にかけての10か月間という短い期間しか使用されず、なおかつ、その間に、養和の飢饉が起る。『方丈記』には「また、養和のころとか久しくなりてたしかにも覚えず。二年があひだ世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春夏ひでり、秋冬大風洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」とあり、京都市中で大量の餓死者が出たとしている。約4万が餓死したと推定され、死者のあまりの多さに供養が追いつかなかった、という。

中国星官名を入れてみました。これは双子座のあたり。

銀河の彼方で恒星がその一生を終えたことと、地上の、それも日本の飢饉になんの関係があるのかと問われたら、さあ?としか答えられない。がとにかく、突如として彗星があらわれ、飢饉が起り、西には安徳天皇、そして東には源頼朝。それが治承五年の秋の出来事であった。     (秋月さやか)


火星接近(2年2か月ごとの火星逆行のタイミング)牡牛v字のアルデバランを先へ伸ばしていくと火星。富士ケ嶺で撮影。コンデジなのでこんなものでご勘弁を。一眼欲しい、切実。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?