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福原遷都を咎める怪異と、清盛の遺言  吾妻鏡の今風景20

治承五年、閏二月十九日。頼朝は清盛死去の知らせを受け取る。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。」
清盛が世を去ったのは治承五年閏二月四日。これはユリウス暦で3月20日、しかし1181年の春分はユリウス暦の3月20日よりも1週間ぐらい前だったので、今の暦でいうなら3月27日頃。いずれにしても桜の花は咲いていたに違いなく。しかしその心境は「願わくば花の下にて春死なん…」という西行法師とはまったく異なるものであったと思われる。

桜。といってもソメイヨシノ。平安時代には桜といったらヤマザクラだったわけですが。

平氏、桓武天皇の子孫。桓武天皇→葛原親王→高見王→(平)高望王→国香→貞盛→維衡→正盛→忠盛→清盛。

国香の妻(貞盛の母親)は源護(注・嵯峨源氏)の娘なので、その子孫には源氏の血も流れている、という話はすでに書きましたが、平清盛には白河法皇のご落胤説もあり、そのあたりは謎ということで。

平治の乱における勝者。平氏棟梁として太政大臣に任じられ、日宋貿易を行って宋銭を流通させ、通貨経済の基礎を築いた人物。

清盛は貿易港として大輪田泊(おおわだのとまり)を整備し、福原に雪御所を構える。
治承四年六月、福原へ遷都。京を捨ててなぜ福原へ?この遷都は清盛が勝手を通したものとされ、公家の九条兼実などはその日記『玉葉』で「天狗の所為、実にただごとにあらず」としている。天狗とは清盛のことをいっているのだろう。
 
たしかに清盛の勝手ではあったのだろうが、当時の京の都は度重なる災害で、ひどいありさまであったという。
安元三年(1177年)に起った京都大火。愛宕山の天狗による火事であるとして「太郎焼亡」と呼ばれた。当時の日本において、神仏だけでなく、天狗や妖怪などもまた災害をひきおこす超人的存在であった。さらに治承二年にも再び大火が京都の町並みを襲い、こちらは「次郎焼坊亡」と呼ばれる。秋の紅葉がみごとな愛宕山に住む天狗は、あの羽団扇で火事をひきおこすことができると考えられていた。
 
荒廃し疲弊した京の都にいても、この現状から抜け出すことなどできない。新天地の福原を都にしたいという清盛の気持ちもわからないではない(ような気がする。)

これはジャコウアゲハ。平氏といったら揚羽蝶紋ということで。

しかし、福原へ遷都ののち怪異が起るようになる。
雪御所の奥で地震のような地響きがあり、それから空の高いところで大勢の人が笑う声が聞こえる。天狗の仕業に違いないとされ、昼は五十人、夜は百人の兵に警護させて「蟇目の法」という厄除けの所作を行う。これは鏑矢を射て怪異を祓うもので、天狗が隠れている雲に向かって射れば、怪しげな雲は消滅し、天狗を追い払うことができるのであるが、しかし、一時的に追い払うことはできても、空の高みから、下界を見下ろしてあざわらうかのような笑い声はいっこうに止まなかった。

さらには大庭景近が清盛に献上した名馬「望月」の尻尾に、鼠が巣くって仔を産んでしまう。それは馬小屋が汚いからであって怪異でもなんでもないと私は思うのだが、なんと、日本書紀に、鼠が馬の尾に子を生む話が登場している。
天智天皇が百済の救援した時の話。
「元年春正月辛卯朔丁巳、賜百濟佐平鬼室福信矢十萬隻、絲五百斤、綿一千斤、布一千端、韋一千張、稻種三千斛。三月庚寅朔癸巳、賜百濟王布三百端。是月、唐人新羅人伐高麗、高麗乞救国家、仍遣軍將據䟽留城。由是、唐人不得略其南堺、新羅不獲輸其西壘。夏四月鼠産於馬尾、釋道顯占曰、北国之人將附南国、蓋高麗破而屬日本乎。」

→元年春正月辛卯朔丁巳、百済の佐平の鬼室福信(きしつふくしん)が矢十万隻、糸五百斤、綿一千斤、布一千端、韋(なめし皮)一千張、稲種三千斛を賜る。三月庚寅朔癸巳、百済王が布三百端を(天智天皇より)賜る。この月、唐人と新羅人が高麗を征伐。高麗は救援を乞い、将軍が䟽留城(ソルサシ)に派遣される。唐人は南の国境を略奪することができず、新羅は西の城塞を落とすことが出来なかった。夏四月、鼠が馬の尾で仔を産む。道顯が占うには(注・道顯は飛鳥時代の僧侶で高句麗からの渡来人)、「北国の人が南国に附く。高麗が敗れて日本に屬するであろう。」
(百済と日本は同盟関係にあり、百済の要請により朝廷は援軍を派遣。一時的には唐と高句麗を退けて、日本への人質となっていた余豊璋を百済に送って即位させる。が、のちに百済日本連合軍と新羅唐連合軍は白村江で交戦し、百済日本連合軍は敗退する。)

前例からすれば、鼠は子で北で北国。つまり東国か。馬は午で南で南国、これが西国の京だろうか。しかし、一時的には勝っても、結果的には百済日本は唐高麗に負けたわけだから、さて、これをどのように解釈すべきなのか。

また、源中納言雅頼(げんちゅうなごんまさより)のところに仕える青侍(せいし)が恐ろしい夢をみたという話も伝わる。
「大内(大内裏)の神祇官とおぼしき所に、束帯正しき上臈の、あまた寄り合ひ給ひて、議定(ぎじょう)のやうなる事のありしに、末座なる上臈の、平家の方人(かたうど)し給ふとおぼしきを、その中よりして追っ立てらる。遥かの座上に、気高げなる御宿老のましましけるが、「この日ごろ平家の預り奉る節刀をば召し返いて、伊豆国の流人、前兵衛佐(さきのひょうえのすけ)頼朝に賜ばうずるなり」とぞ仰せければ、その傍になほ御宿老のましましけるが、「その後は、わが孫にも賜び候へ」とぞ仰せける。」。青侍、夢の中に、ある老翁に、次第にこれを問ひ奉る。「末座なる上臈の、平家の方人し給ふとおぼしきは厳島の大明神、節刀を頼朝に賜ばうと仰せらるるは八幡大菩薩、その後わが孫にも賜べと仰せけるは春日の大明神、かう申す翁は武内の明神」と答へ給ふ。

大内裏の神祇官(祭祀を司る役所)であろうと思われる場所に、正装した身分の高い人々が集まって会議をしているようであり、末座にいる平家の方人であろうと思われる人が、その中から追い立てられてしまう。上座にいる気高そうな老人が「平家が預り奉った節刀(天皇が将軍の出征にあたって授ける刀)を返させ、伊豆国の流罪人の頼朝に賜る」と仰せになり、その傍にいる老人が、「その後は、私の孫にも賜りたい」と仰せになる。
青侍が、夢の中でとある老人に、ことの次第を尋ねたところ、「下座にいる身分の高い平家の方人は厳島の大明神(平家の守護神)、節刀を頼朝にお与えになろうと仰せなのは八幡大菩薩(源氏の守護神)、その後私の孫にも賜りたいと仰せなのは春日の大明神(藤原氏の氏神)である」、わしは武内の明神(武内宿禰、たけのうちのすくね)であると告げられる。

厳島の大明神は、平家が崇めた神仏。八幡大菩薩は源氏が崇めた神仏。春日大明神は藤原氏の祖神なので、これが鎌倉幕府5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらよりつぐ)のことであったと解釈すべきなのか?
 
清盛がまだ安芸守であった頃に厳島の大明神より夢で賜った銀(しろがね)の蛭巻(ひるまき)という小長刀(こなぎなた)があった。これは夢で賜ったにも関わらずめざめてみたら現実に手元にあったという不思議な物で、清盛はその小長刀をいつも手近なところに置いていたが、ある夜、これが失くなってしまう。つまりはこれが「平家が預り奉った節刀」であったということになるのであろう。

このような怪異が起ったのち、頼朝が石橋山で挙兵。平家側の大庭景近その他の軍勢の前に頼朝は敗走するが、安房で体勢を立て直した頼朝軍を追討するために派遣された平家軍が富士川の戦いで大敗しとの報告を聞いて、清盛激怒。
そして十一月二十三日、京都へ還都(かんと)。都を再び京に戻す。十二月には、平氏が園城寺と南都の諸寺を焼き払う。治承五年二月二十六日、平氏は東国追討に向かうはずであった。が、なぜか出立せず、二十七日には清盛が病に倒れる。

清盛は、「我が今生での望みは果たし、思い残すことはないが」(といいながらも)
「ただ、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝の首を見ることができぬのが不本意。我が死んだ後は、供養塔もたてず、仏事法要も行わなくてよい。(寺など建てるのはもってのほかで)、直ちに討手を差し向け頼朝の首を刎ね、我が墓の前に供えるべし。 これぞ今生の供養である」との遺言を残し、鴨川の平盛国の屋敷で亡くなる。閏二月四日、享年64。     (秋月さやか)


ナツツバキ。沙羅双樹はインド原産で日本にはない。日本ではナツツバキを沙羅双樹のかわりにしているけれど、全然違うみたい。


注・私、坂東育ちで、京の写真がございません。揚羽蝶、その他のイメージ画像でご勘弁くだされ。

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