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常陸国金砂城の戦い、行年衰日ノープロブレム!  吾妻鏡の今風景19

富士川の戦いに勝利した源氏軍。頼朝はこのまま京へ一気!と意気込むが、まずは関東を平定することが先でござる、との上総広常たちの提言に従うことに。相模国の国府(注・余綾郡、現在の大磯町本郷、つまり大磯ロングビーチ、旧吉田茂邸付近)で論功行賞を行ったのち、常陸国へと進軍。

常磐高速で一気に常陸国へ!小美玉インターで降りれば矢立橋。

治承四年(1180年)十月二十七日。お日柄はといえば、頼朝の衰日(行年衰日)にあたっていた。陰陽道の行年衰日は本人の年齢によって決まる。頼朝、生年が久安三年(1147年)、治承四年(1180年)には数え34歳。34歳の行年衰日は、日支が子、午。つまり数え34歳は、日支が子と午の日には、なにをしてもうまくいかない厄日であるとする。

旧十月二十七日の日干支はというと、丙午。行年衰日にぶちあたり。そんな凶日に出立なんて!と、御家人たちには反対されたと思われるが、しかし頼朝は「二十七日こそは以仁王の令旨が到着した吉日である」と主張して、進軍を決定。(二十八日にすればいいだけと思うのだが、論功行賞の当日に、勢いをつけて出立したかったのかもしれない。)さすが、頼朝は暦占に惑わされなかった。

富士川の戦いから、常陸国への出立日までの日干支を以下に記載してみる。干支は通しナンバーを併せて記載しておくと間違えないので便利。干支の組み合わせ順序はよく考えればわかりますが、ややこしいものなので。といっても、子午は、日支(地支)なので、天干は関係ありませんが。

旧十月二十三日 壬寅38(←38は干支ナンバー)
旧十月二十四日 癸卯39
旧十月二十五日 甲辰40
旧十月二十六日 乙巳41
旧十月二十七日 丙午42
旧十月二十八日 丁未43

園部川にかかる矢立橋。

めざすは常陸介の佐竹館。佐竹氏の祖先は新羅三郎義光、源氏一族であるが、頼朝の挙兵には馳せ参じていない。当主の佐竹隆義が上洛していたためで、その留守を預かっていたのは息子の佐竹義政であった。
旧十一月四日、頼朝は常陸国府に入る。現在の石岡市。上総広常が佐竹義政を園部川にかかる矢立橋に誘い出して誅殺。なんて乱暴な~。
 
佐竹氏は金砂城に立て籠もる。佐竹を率いるのは義政の弟の秀義(ひでよし)。金砂城は、現在の西金砂郷神社の場所に建っていた山城で、その地形から難攻不落、攻めるのは容易ではなく、広常の献策によって秀義の叔父佐竹義季を寝返らせて落城。

金砂郷名物、常陸秋そば。道の駅ひたちおおたにて。

秀義は花園城(茨城と福島の県境)へと逃亡し、追手を逃れて冬の渓谷をさまよった。猿に食べ物を恵んでもらってようやく生き延びたというのが地元の言い伝えであるが、たぶん、秀義は猿からではなく、地元の民に食べ物を恵んでもらったのではないだろうか。敗軍の将をかばいだてしたら地元民にも罪が及ぶ。そう考えた秀義は、猿に食べ物を恵んでもらった、と言い続けたのではないだろうか。

頼朝を敵に回して敗れた佐竹であったが、9年後、文治5年(1189年)の奥州合戦において、佐竹は頼朝軍の一員として参戦し、御家人となった。

金砂郷神社参道。

金砂城があったのは、現在の金砂郷村、金砂郷神社。
金砂郷神社の磯出大祭礼は、72年ごとに一度の大祭礼として有名である。なぜ、72年という巡りなのか。私は一時、このあたりを調べるために、茨城県図書館、その他の関連施設に通い詰めたことがある。(妙見信仰と関連があるのではないか、と思えたため。)

はたしてその72年サイクルは、かなり古い時代に決められたものだという記事を見つけた。かつて先祖が金砂郷神社の大祭の関係者であったという古川和男氏の記事をネットで紹介しているものであった。記事によれば、そのはじまりは藤原宇合(ふじわらのうまかい)の子孫の藤原盛有(もりあり)が、平城帝の勅で806年に東国の疲弊救済の為に最澄の弟子と共に金砂郷に派遣され、日吉大神を金砂山に遷座したところからはじまったとする。
二代目の盛綱(もりつな)が、小祭礼の七回目に当る851年に「七」を尊んで干支(エト)12年の七廻り「七回目の羊の年」毎に、七十三年廻りの大祭礼を創めたとする。(←古川氏の記事より抜粋引用)

西金砂神社が、金砂城の戦いの地

日吉大神(日吉大社)は滋賀県大津市坂本にある神社で、唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君(山王権現)を祀ったもの。

Wikiによれば、851年(仁寿元年)に、第1回の磯出大祭礼が開催され、1139年(保延5年)の第5回めの大祭礼から金砂田楽が始まり、第6回の大祭礼は1211年。1211年は、実朝が3代将軍、猶子に迎えていた善哉が出家して公暁と号した年にあたる。

水戸から水郡線で常陸太田へ。(注・この電車は常陸大子行)

歴史学者の志田諄一氏によれば、新羅三郎義光は、孫にあたる源昌義(注・義業(よしなり)の息子)を佐竹郷(常陸太田市)に、武田郷(ひたちなか市武田)は三男の義清に与えた。が、(昌義が)藤原清衡(注・奥州藤原氏初代当主)の娘を妻として佐竹氏と称し、その権勢をのばしていく時期に、両金砂山と常陸五山が、頼義・義家父子の、そしてそれに先立つ坂上田村麻呂戦勝祈願伝承とともに、佐竹氏の勢力下で武運長久の祈願所として力を蓄えていったと考えられる、としている。(参考:『郷土ひたち』第53号志田諄一「金砂大祭礼をめぐる問題」)
 
古川氏の記事をサイトに掲載していた川又愼氏には、メールでの問い合わせにご対応いただき、お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。   (秋月さやか)

参考文献:『郷土ひたち』第53号志田諄一「金砂大祭礼をめぐる問題」

道の駅ひたちおおた。常陸太田は佐竹氏の本拠地。

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