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三浦衣笠城の戦い、三浦大介義明の最期 吾妻鏡の今風景07

なぜ三浦が頼朝の呼びかけに応えたのかといえば、三浦海南神社の「神事狐合」で白と赤の狐を戦わせ、白の狐が勝ったためであるとする。が、三浦はもともと源氏とゆかりが深い。頼朝の腹違いの兄であった義平(義朝の長男)の母は、三浦の出身、つまり義明の娘であったとされる。

頼朝が三浦大社で旗揚げしたのち、石橋山に三浦が駆けつけるという手筈になっていた。・・・にもかかわらず、悪天候の中、三浦軍は増水した酒匂川を渡れず、そこに頼朝敗戦の知らせが届く。

三浦義澄はじめとする三浦勢には、大多和義久、佐原義連、和田義盛たちがいたと思われる。しかし、頼朝が負けちゃったんならどうしようもない。とにかく城に帰るか。しかし帰路の鎌倉由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢とバッタリ。双方に「やるか?」と緊張が走るが、「源氏再興軍が負けちゃったのに、俺らが戦う事ないんじゃん?」とおさまりかける。そもそも、重忠と義盛たちは従兄弟同士である。(重忠の母は三浦大介の娘)、平氏方、源氏方と敵味方ではあるが、できれば戦いたくないのはもちろん。が、そこへ和田(次郎)義茂が「俺に任せろ」とばかり畠山軍につっこんで、やっぱり合戦になってしまう。これが小坪合戦。前しか見えずにまっずぐに突っ込んでいってしまう武者のことを猪武者というけれど、和田次郎は立派な猪武者であった。

左手の崖の上が小坪の山。右前は逗子マリーナ。


 
小坪峠を挟んで三浦300騎、畠山500騎。畠山重忠は郎従50名余りの首をとられ、しかし和田勢にも被害が出て、双方、いったん退却。この時、義茂が首をとられたと記載している物語もあるが、義茂は無事だったらしい。小坪峠は、R134の小坪漁港の山側のトンネルの上になる。
 
和田義盛、義茂兄弟はともに三浦大介義明の孫。名字が違うのでわかりにくいが、当時は住居地を名字にしていたため。和田兄弟の父は三浦大介義明の息子なのだが、鎌倉の杉本に住んでいたので杉本義宗を名乗った。(注・鎌倉市二階堂の杉本寺のあたり。)
 杉本義宗が亡くなったのち、義盛・義茂、以下弟たちは三浦に移り、住んでいた和田の地にちなんで、今度は和田を名乗ることになる。

一方、畠山重忠は、武蔵国畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)出身であるが、母は三浦大介義明の娘であった可能性が高いので、となれば、畠山重忠も三浦大介義明の孫で、和田義盛・義茂と畠山重忠は従兄弟どうしになる。
 
が、重忠をはじめとする関東武士は、もともとが平氏方であった。
治承四年(1180年)旧暦八月二十六日。畠山重忠は、河越重頼、江戸重長に加勢を呼びかけ、数千騎で三浦氏の本拠地である衣笠城を襲撃する。畠山、河越、江戸は秩父党のメンバーで、秩父重綱を祖先に持つ一族。重の文字の入った名前が、秩父党の証である。


秩父軍来襲により、三浦氏は衣笠城を放棄して上総へと脱出を決定。二十六日の深夜に久里浜から船を出し、嵐の中を安房国へ向かう。(六浦から出航と記載してある書物もあるが、衣笠からは久里浜からのほうが近い。)
 
当主の三浦大介義明は八十九歳の老齢で城に残るが、城を枕に討ち死にではなく、落城前に城から逃れる。言い伝えによれば、城を出てしばらくいったところで馬が立ち止まって動かなくなり、その場所を死に場所として切腹。そこに松の木があり、腹切り松と呼ばれるようになった。が、その腹切り松は現在、自衛隊の敷地(大矢部弾薬庫)の中で、一般人は立ち入れない。(注・衣笠にある腹切り松公園は、実際の大介義明の切腹場所ではない。)
私、その腹切り松公園の隣にある歯医者で、親知らずを抜きました。根が深く、長時間に及ぶ抜歯の格闘に涙が出てきましたが、それでも、親知らず抜くぐらいなんでもないや、と、隣の公園の看板を眺めながら、思ったわ。でも、あの腹切り松公園は、実際の三浦大介自刃の地ではなかった、ということのようですが。

もう20年ぐらい前、衣笠にしばらく住んでいたことがあって、衣笠インターチェンジを降りてすぐの、2階の窓から衣笠城址へと登っていく道がよく見える家。毎晩のように犬を連れて、衣笠城址まで散歩に行った。
ある時、衣笠城址から大楠山までのハイキングコース歩いてみようと思いたって出かけた。衣笠城址の下の寺のすぐ脇から、藪の中へと入り込んでいく細道が続いている。犬を連れて家を出たのが昼前、たいした距離ではないと思っていたけれど、急な昇り道は意外にきつく、大楠山まで辿り着いた頃にはすでに夕方近く、帰りには道に迷って衣笠PAで道を聞き、家に戻ってきた時には夜中だった。あのハイキングコースは、秩父連合軍が衣笠城へと攻め寄せた道の一部だったのだろう。

衣笠城攻めで畠山軍が陣取った山は、今でも畠山という地名となって残っている。それは葉山と横須賀の間の山で、住所は葉山町葉山町木古庭。ただし、山頂に向かうにはハイキングコースしか道がなく、そしてマムシ注意。衣笠城に攻め入ろうした畠山軍は、たぶん敵の前にマムシと戦わなくてはならなかったかもしれない。   (秋月さやか)




横横道路の上りルート、この左手がたぶん畠山(たぬきが出るらしい)、この先が横須賀出口。
 
 


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