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野木宮合戦、範頼デビュー! 坂東武者のR125  吾妻鏡の今風景21

野木宮合戦(のぎみやかっせん)は、下野国の野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で、源(志田)義広と、小山朝政(頼朝側の軍勢)がぶつかりあった合戦。『吾妻鏡』によれば治承五年(1181年)閏二月二十三日。野木宮合戦は一般的には寿永2年(1183年)2月23日とされるが、ここでは吾妻鏡の記載に従う。治承五年は、寿永2年よりも2年早い。

さて、源三郎義広(みなもとのさぶろうよしひろ)は、源為義の三男。すなわち頼朝の父の義朝の弟で、頼朝の叔父。かつて帯刀舎人(たちはきのとねり)の職にあった。これは律令制で定められた武官で、今でいうなら警視庁のSPのようなもの、皇太子の警護にあたる役職。のちに常陸国信太荘(茨城県稲敷市)を開墾して居住し、志田(信太)三郎義広となる。

『吾妻鏡』によれば、頼朝は義広が鹿島社所領の押領行為をしていることを問題視し、義広は、そんな頼朝を煙たく思ったのだろう、生意気な甥(頼朝)に対して反旗を翻す。
まず、足利を誘う。足利又太郎忠綱。藤姓足利氏といいまして、祖先は藤原秀郷。源姓足利氏とは違うので注意です。足利又太郎は、平家方についていたが、頼朝を滅ぼすのであれば、とOKする。敵の敵は、つまりは味方(になるしかないので)。 

野木駅近くの踏切。

義広はさらに下野国の小山朝政にも声をかける。小山朝政の妻の寒川尼は、かつて源頼朝の乳母であった。小山朝政は、義広に同意すると見せかけ、下野国野木宮(栃木県野木町)にて義広の軍勢を襲う。
合戦の最中に、暴風が東南から襲い、塵を巻き上げたため、義広の軍勢は視界を失い、結果的に敗北したと、『吾妻鏡』には記載されている。実際、栃木南部のだたっぴろい平野では、今現在でも、時々、竜巻が起る。


結城、50号線近くにある、結城の館跡と思われる遺跡。


道の駅よしみにて。

小山軍には、小山(結城)朝光(ともみつ)、そして範頼がいた。範頼。頼朝の弟。蒲冠者。『吾妻鏡』では、ここで突如、蒲冠者、範頼の名前が登場する。

範頼については、蒲御厨(浜松)で生まれたために蒲冠者と称されるが、その生い立ちは詳しくはわかっていない。が、平治の乱ののち、岩殿山(注・吉見の岩殿山安楽寺)に逃げて比企氏の庇護によって成長したという説がある。また、範頼を養育したのは公家の藤原範季であり、元服にあたってはその一字をとって範頼と名乗ることになる。藤原範季は、後白河法皇の近くに仕え、常陸介や上野介などの役職を歴任していた。いわゆる身分の高いお金持ち。

範頼がどのようにして頼朝と対面したのかは記録がないので不明であるが、
範頼は安達盛長(あだちもりなが)の娘を妻とし、武蔵国横見郡吉見郷(埼玉県比企郡吉見町)を領する。妻の母親の丹後内侍は比企尼の長女。つまり、比企の尼の孫娘が範頼の妻である。比企一族と、範頼との関係性はかなり強かった。

比企尼は頼朝の乳母のひとりで、のちに範頼が罪を被った時には、範頼の息子の命だけは助けてやってくれ、と比企尼が命乞いし、範頼の次男の範円(のりかど)が出家して僧侶となり、範円の息子が吉見為頼(よしみためより)として鎌倉幕府に仕えることとなる。これはずっと先の話だけど。

寒川尼、比企尼、頼朝ナニーたちのお話についても、いずれのちほど。

小山、東北線の小山駅がある市。新幹線も停まる大きな駅。小山には私の母方の大叔父(祖父の妹の息子、ええと、母の従兄弟?)が住んでいた。小山の駅を降りてちょっと行った路地の奥。かなり古い記憶ではあるが、小山はさすがに古い町で、板塀がめぐらされた家が並び、塀に挟まれた路地が多かったような記憶がある。


道の駅思川。4号線と50号線が交差する近く。交通の要所。

そして野木宮の最寄り駅は野木駅、JR東北線で、小山よりも南にある小さな駅。西には渡良瀬。東には筑波山が見える。


筑波山。関東平野のどこからでも眺めることのできる山。

志田三郎義広の本拠地、信太庄は、茨城県稲敷市の、霞ケ浦の南岸で、筑波山が北西に見える。最寄り駅は、常磐線荒川沖という、牛久よりも1つ先、土浦の前の小さな駅であるが、そこからかなり車で走ったところで、阿見プレミアムアウトレットから霞ケ浦へ向かって美浦村のあたり、といったほうがわかりやすいか。昔は、水運の要所であったらしい。

信太荘と野木宮。常磐線と東北線。この2つは、鉄道ではずいぶんと離れているように見えるが、土浦からR125を通って、野木までの距離が60kmちょっと。馬なら半日もかからずに行ける距離だから、「おう、一緒に戦おうぜ」ぐらいの声はいつでもかけられる。R125を車で走ってみると、いつも筑波山が見えていて、そして道はどこまでも平坦、見渡す限りの田畑。時々、コンビニと大型スーパーとホームセンターが出現する。かつて坂東武者たちもこの道を通ったのだろうか。

さて、野木宮合戦の知らせを受けた頼朝は、翌日から鶴岡八幡宮で、東西の戦いの静謐を祈り始めたとされる。熱田大宮司藤原季範の娘を母に持つ頼朝だからこそ、できることなのだろう。

で、書いていて気づいたのですが、範頼の養父は公家の藤原範季(のりすえ)で、頼朝の祖父の熱田大宮司は藤原季範(すえのり)。もちろん違う人なのですが、紛らわしいわ。  (秋月さやか)


結城城址に建つ神社。

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