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朝日将軍義仲、日蝕に慄き斃れる   吾妻鏡の今風景27

 京へ上った義仲は「朝日将軍」と称される。対する後白河法皇はといえば、陰謀という衣を纏った闇の帝王(ボスキャラ)のごとし。
 
 後白河法皇は、陰で内密に頼朝との交渉を進め、頼朝は院の使者に大量の貢物を持たせて送り返す。もちろん食糧も。金と食べ物に目が眩む後白河法皇。京の公家や皇族たちは、地方からの租税という貢物で暮らしている身分であり、つまりはパラサイト・・・(以下自粛)
 
 義仲が平氏討伐に西国へと向かっている間に、後白河法皇は、頼朝に東国の支配を任せる宣旨を下し、上洛を命じる。これが「寿永二年十月宣旨」(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)。後白河法皇は、義仲から頼朝への乗り換えを画策していた。
 
 義仲はといえば、閏十月朔の水島の戦いの最中に、なんと日蝕が! そして、負け戦。平氏には陰陽師がいたので、朔の日には蝕があることをあらかじめ知っており、それを利用してこの日に戦をしたのではないか、との見方もある。

 義仲は、頼朝方の兵が上洛するという噂を聞き、平氏との戦いを切り上げて、京に戻り、十一月十九日(1184年1月3日)、後白河法皇が院御所としていた法住寺殿を襲撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉するというクーデターを決行。これが法寺合戦(ほうじゅうじかっせん)で、義仲は、後白河法皇に従った兵たちを殺戮し、天台宗のトップである明雲の首を、川に投げ捨てる。

 頼朝は、自分の代わりに義経を京へと向かわせるが、義経が近江に差し掛かった頃に京では法住寺合戦が勃発し、鎌倉の頼朝に京の急変を報告する。「法皇様をお救いせよ!」年が明けた寿永3年(1184年)、範頼が東国から援軍を率いてやってくる。
 
 寿永三年(1184年)一月六日、鎌倉軍が墨俣川(名古屋を流れる川)を越えたという噂が京に達し、義仲は十五日には自らを征東大将軍に任命させ、鎌倉軍との開戦に備える。
 一月十五日。小正月。小正月には、豊作を祈って五穀粥を食べる風習があり、この時代にもそれは行われていたはずであるが、はたして、食糧難の京の冬、宮中で小正月の行事は行われたのだろうか。

 一月二十日、義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って入京、義仲は今井兼平ら数名の部下とともに落ち延びるが、二十一日、近江国粟津(滋賀県大津市)の泥田で討ち死。征東大将軍に任じられたのが一月十五日の満月で、それから下弦のまでわずか1週間。この年の一月二十一日は、二十四節気でいうなら、雨水の終わり、あと数日で啓蟄という頃のこと。木曽義仲、寿永二年(1183年)七月二十八日の入京から半年。享年31。
 
 義仲が滅ぼされた知らせは、一月二十七日に鎌倉へともたらされる。
 その3カ月後、鎌倉にいた義高が逃亡をはかり、四月二十六日(二十四節気では芒種の頃)に武蔵国の入間河原で藤内光澄に討たれる。(狭山市入間川4丁目に義高を祀った清水八幡宮がある)。享年12。なお、藤内光澄はのちに義高を討ったことが原因で大姫が病に伏したため、その罪を問われて斬首。

 義仲の次男の義重は、信濃に落ち延び、のちに将軍頼経から木曽と仁科を賜り、甲斐にいた弟の四郎義宗に木曽を譲り、仁科に移って仁科氏の祖となったとされる。

 三男の義基(万寿丸)は、家臣に匿われて群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延び、沼田姓を名乗ったとされる。落武者伝説あるあるストーリーで、木曽神社のご神体を持って落ち延びた家臣たちが、とある池の傍に腰を下ろすと、ご神体が重くなって持ち上がらなくなり、この地にご神体を祀ることにした、という成り行き。それが、北橘村箱田の木曾三柱神社であるとする。


国道17号から行くなら、ここで左折して木曽三柱神社をめざす。



木曽三柱神社。

 義仲の側室の蘭の局(望月氏の娘)は、義仲が討たれた時に妊娠中で、群馬県中之条町六合村(くにむら)に落ち延びて生んだ息子が四郎義宗であるとする。

 しかし、『木曽殿伝記』によれば、義重、義基、義宗は、上野国の藤原家国のもとにかくまわれ、源家三代が将軍の間は沼田姓を名乗っていたが、源家将軍が断絶したのちに、上州と相州に所領を得たとする。

道の駅 八ッ場ふるさと館から。信州上田から国道144で草津へ、さらに国道145を通って国道353へ、利根川を越えると、北橘村箱田の木曽三柱神社へと至る

 さて、公家の藤原基房は、その娘の伊子を義仲に嫁がせていた。(吉川英治の「新・平家物語」では、藤原基房の娘は冬子姫として登場する)
 (一説によれば)伊子の産んだ娘は、のちに2代将軍頼家の側室となって娘を生む。その娘は政子に育てられ、竹御所と呼ばれ、政子亡き後、29歳で第4代将軍藤原頼経に嫁ぐことになる。

小諸から万座へと向かう山道、百体観音と呼ばれる石仏が並ぶ峠の五十番観音。シナノキの大木の下で、義仲が雨宿りしたという伝説がある。
冬に百体観音の山道を越えようとした義仲は、七十番観音付近で馬を進めることができずに引き返したとされる。木曽義仲駒返しの地。七十番観音は標高1600mぐらいある場所。

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