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腰越状、ギフテッド義経の自己主張文  吾妻鏡の今風景30

 壇ノ浦の合戦が終わり、義経は京に凱旋。後白河法皇は、義経と御家人たち24名を任官させた。頼朝は朝廷からの任官を勝手に受けた(自由任官)御家人たちに怒り、書状を送り付けた。つまり、
 「では京で頑張れ。墨俣よりも東には二度と足を踏み入れるでない。(鎌倉にはもう帰ってこなくてよろしい、オマエはクビ。)」という意味の書状に、さらに御家人たち各々に批判めいたコメント文を追加した。いやそのコメント文がですね、あまりに面白いので、原文、探してみました。
 
 義経に従っていた佐藤忠信には、
「秀衡之郎等令拝任衛府事 自往昔未有 計涯分 被坐ヨカシ 其氣ニテヤラン 是ハ鼬ニヲツル」
→「藤原秀衡の家来が官位を拝領する?そんな話は昔からない。何を勘違いしてその気になっているのか? イタチ以下だ。」

 渋谷重助には
「父在國也 而付平家令經廻之間 木曾以大勢攻入之時付木曾留 又判官殿御入京之時又前參 度々合戰ニ心ハ甲ニテ有ハ 免前々御勘當可被召仕之處 衛府シテ被斬頚ズルハ イカニ能用意ノ語于加治テ 頚玉ニ厚ク頚ニ可巻金也」
→「オマエの父は国にいて(自領を守っていたのに)、オマエときたら平家にくっついてあちこち巡り、義仲が京へ入ったら義仲に従って京都に留まり、義経が義仲を討って京へ入ったら義経のもとに駆けつけやがって、しかしたびたびの合戦で活躍したので、それまでのことを許してやったのに、勝手に任官か。いずれオマエの首を切ってやるから、腕のよい鍛冶屋で、首に厚く巻く金具でも作ってもらっておけ。」(本当に首を斬るつもりですかね、こうなるともう脅迫。)

 後藤基清には「目ハ鼠眼ニテ只可候之處 任官希有也」
「オマエの目はネズミだろう。ただおとなしくいりゃよかったものを、任官したのか。」

 梶原友景(朝景)、梶原景時の弟には、「音樣シワカレテ 後鬢サマテ刑部カラナシ」→「声はかすれて、髪は薄いオマエなんぞに刑部の役職は勤まらん。」(髪ハラですか)

 梶原景高、(梶原景時の次男)に至っては、「悪氣色シテ本自白者ト御覽セシニ。任官誠ニ見苦シ」→「オマエは人相が悪く、白者(頭のおかしな者)に見える、それが任官とは誠に見苦しい。」(人相悪い、アタオカ、パーソナルハラスメント!)
 
 その他、鈍くさい馬だとか、ふわふわしているだとか、さらには、
「この他にも何人か任官した者がいる。文官武官の何の官職を受けたか、はっきりと分かる必要もないので、詳しく書き出さないが、(今回任官となった他の者たちも)、永遠に京都より外の本国へ帰りたいなんぞと考えるべきではない。」と、まとめて書き送った。
 そこに頼経の名はない。が、「この他にも何人か任官した者たち」の中には当然義経も含まれている(はず)。しかし、名指しで書かれてはいないので、義経は、自分は除外だと思ったのかもしれない。
 頼朝は五月四日に、九州へと向かう景時の使者に、義経を勘発(間違いを責め立て叱責)した、という内容の書状を持たせたそうであるが、その叱責ははたして義経に伝わったのか?

 義経は戦いの天才で、いわゆるギフテッド(天から才能というギフトを授かった者)なのだが、ギフテッド特有の自閉症スペクトラム障害を同時に持っていたと思われる。自分は絶対。だから相手が自分のことをどう思っていようがそんなことは気にしない。(スピ系の人たちが、あなたは特別、唯一の存在と言っているのをすでに無意識に達成した人。だからギフテッドなんだけど。)
 自閉症スペクトラム障害は、はっきりと名指しで言われなくては理解できない人種である。義経は(たぶん)、自分は官位を受けても問題ない、(だってなにも言われていないから)と思ったのかもしれない。パワハラ体質で黙っていても察しろ仕えろ、俺をたてろの頼朝と、つねに世界の中心にいるギフテッド義経では正反対であった。
 
 義経は、壇ノ浦で捕らえた平宗盛、清宗父子を鎌倉に護送して、五月七日に京を立つ。
 囚人の平宗盛は輿に乗り、家来たちは徒歩。義経一行は、五月十五日夜には酒匂駅に到達。8日間で、京から小田原まで。以前にも書いたが、京から小田原まで約410km。410÷8≒50。1日50kmはかなり厳しい。平安時代末期、京から伊豆まで360kmほどの道のりを、普通は3週間ほどかかっていたのでつまり1日17km程度。それをその2倍以上の速度でというのは尋常ではない。
 義経一行は酒匂の手前で鎌倉に使いを出したのち、山内荘腰越に到着。鎌倉入りしたのは宗盛父子のみで、義経一行は腰越の満福寺に滞在することになった。いつまでたっても鎌倉に入れないことを不満に思った義経は、もしかして頼朝に嫌われているのか?と思ったらしく、「叛く心などございません」というような起請文を何通か書いたらしい。が、その起請文は頼朝の手元には渡っていなかったと思われる。ついに、どうして鎌倉に入れないのか、頼朝様に会わせてくれ、というようなことを訴えるために、義経が大江広元に宛てた書状が腰越状である。


腰越駅から満福寺


その文面は書き直しじゃ。義経、偉そうに座ってんじゃないのよ。

 

 「腰越状」は、戦前までは手習いの経本になっていたそうです。以前私も読んでみましたが、、、わかりやすく言うなら、オレオレ正しい宣言とでも? はっきり言います。こんな文章で身の潔白を証明することができるわけなどない。(戦前の日本人は、こんな文章を手本にして学んでいたんですか?)ましてや、これを読んだ大江広元が、頼朝様に取り次ぐわけなどない。少々、吾妻鏡を読んだことのある人なら、そうしか思わない(はず)。
 腰越状は弁慶が代わりに書いた、とも言われているのですが、となると、弁慶は、主人(義経)よいしょのあまり、相手(大江広元)の気持ちを完全に逆なでしています。仮に、義経の気持ちを代弁したのだとしても、正直に代弁すりゃいいってものでもない。 
 
「腰越状」(注・大江広元宛)
 左衛門少尉源義經  恐れ乍ら申し上げ候う意趣者 御代官の其一に撰被勅宣之御使と爲し 朝敵を傾け累代の弓箭之藝を顯し 會稽の耻辱を雪ぐ 抽賞被る可き之處思の外に虎口の讒言に依て莫大之勳功を黙止被る 義經犯無くし而咎を蒙り功有ると雖も誤り無くて御勘氣を蒙る之間 空しく紅涙に沈む 倩事の意を案ずるに良藥は口に苦く忠言は耳を逆るの先言也 茲に因て讒者の實否を糺被不 鎌倉中へ入被不之間素の意を述るに不能 徒に數日を送る 此の時于當り永く恩顏を拝し奉不  骨肉同胞之儀既に空しきに似り宿運之極まる處歟 將又先世之業因を感ずる歟悲き哉 此の倏故亡父の尊靈再誕し給不者 誰人が愚意之悲歎を申披き何輩が哀憐を垂ん哉 事新たに申すの状述懷に似りと雖も義經身躰髪膚於父母に受け幾時節を不經 故頭殿御他界之間 無實之子と成し母之懷中に抱被大和國宇多郡龍門牧へ赴く之以來 一日片時と安堵之思いに住不 甲斐無き之命許りを存ずと雖も京都之經廻難治之間諸國に流行令め 身於在々所々に隱す 邊土遠國を栖と爲し土民百姓等に服仕被る 然而幸慶忽ちに純熟し而平家一族追討の爲 之を上洛令むの手合に木曾義仲を誅戮之後 平氏を責め傾けん爲或時は峨々たる巖石を駿馬に策ち敵を亡さん爲命を不顧 或時は漫々たる大海に風波之難を凌ぎ身於海底に沈め 骸於鯨鯢之鰓に懸くるを不痛 之に加へ甲冑於枕と爲し弓箭於業と爲す 本意は併ら亡魂の憤りを休んじ奉り 年來の宿望を遂んと欲する之外他事無し 剩へ義經五位尉に補任之條當家之面目希代之重職 何事を之に加へん哉 然りと雖も今愁い深き歎き切なし 佛神の御助に非る自り之外者爭か愁訴を達せん 茲に因て諸神諸社牛王寳印之裏を以て全く野心を挿不之旨 日本國中の大少の神祇冥道を請け驚かし奉る 數通の起請文を書き進めると雖も猶以て御宥免無し 其我國は神國也 神は非礼を禀ける不可 憑む所他于非 偏に貴殿の廣大之御慈悲を仰ぎ便宜を伺い高聞に達さ令め秘計を廻被誤無之旨に優ぜ被 芳免に預ら者積善之餘慶於家門に及ばし永く榮花於子孫に傳へん 仍て年來之愁眉を開き一期之安寧を得んと詞を書き盡不  併ら 省略令め候ひ畢 賢察を垂被んと欲す 義經恐惶謹言

現代語訳
「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げる。私は代官に選ばれ勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し会稽の恥辱を雪いだ。高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい莫大な勲功を黙殺され、功績はあれど罪などないのに御勘気を被り、空しく血の涙にくれるばかり。つくづく思うに、良薬は口に苦く忠言は耳に逆らう、ここに至っても讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れていただけないばかりか素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っている。永くお顔を拝見出来ないうちに血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているであろう、私の宿運が尽きたのか、はたまた前世の悪業のためなのか、悲しいことである。亡き父の霊がよみがえってでもくださらないかぎり、誰がこの悲嘆を申し開いてくださるものか。今更改まって申し上げれば愚痴になるが、私義経、身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上の故左馬の頭殿(義朝)がこの世を去り、孤児となって母の懐中に抱かれ大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時はなかった。甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども京周辺で暮らす事もできず、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国で土民百姓などに召し使われ過ごしてきたが、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、木曾義仲と合戦して打ち倒した後、平家を攻め滅ぼすために、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭わず。甲冑を枕とし弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いの他に他意はなく、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉、希に見る重職。しかし今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外はどうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるだろうか。ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用い、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送ったが、なおも許しを頂くことができない。我が国は神国であり、神様は非礼をお受けにはならないはず。他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみ。便宜を図って(頼朝さまの)お耳に入れていただき、手立てをつくして私に誤りが無い事をお認めいただき、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられ、私も年来の心配事も無く、生涯の安穏が得られることであろう。言葉には言い尽くせないが、だいたいそんなところでござる。ご賢察くだされ。義経恐れ謹んで申し上げまする。

 私は、これはまったくダメな文例だと思います。書き直したほうがいい。 頼朝様に会わせて欲しいのですよね? にもかかわらず、延々と自分語り、どれだけ自分が頑張ったかの自慢、あげくのはてに同情しろ、自分は悪くない、ですか? 頼朝様の機嫌を損ねたと思うなら謝罪が必要ですが、謝罪すらしていない。ついには「其我國は神國也神は非礼を禀ける不可 憑む所他于非」(我が国は神国であり、神様は非礼をお受けにはならない)に至っては、スピ系の脅し? これは無理だわ~。    (秋月さやか)


腰越駅


江ノ電踏切


腰越漁港は平安時代末期、すでにあったと思われる。


朝どれフライは平安時代にはなかっただろうけどね。


ボラのフライだそうです。

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