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源平合戦ラストステージ、壇ノ浦の合戦   吾妻鏡の今風景29

 一の谷の合戦後、平氏軍は瀬戸内海を西へ。水上での戦いは源氏にとっては(三浦以外は)不得手。なによりも源氏軍には船がない。
 
 義経は、摂津の水軍渡辺党と熊野水軍、伊予水軍を味方につけた。熊野水軍の別当、湛増(たんぞう)はもとは平氏方であったが、神前で紅鶏(平氏の旗色)と白鶏(源氏の旗色)を闘わせて神意を占ったところ、白鶏が勝ったので、源氏方へ加勢することにしたという。ただし、湛増は弁慶の父であったという言い伝えがあり(つまり弁慶は湛増の息子)、その真偽はよくわからない。
 
 源氏連合軍は渡辺津(摂津国渡辺津 大阪旧淀川河口付近)に集結した。ここで、義経と景時が、見解の相違で言い争うのはお約束。
 
 元暦2年(寿永4年)(1185年)二月十九日。グレゴリオ暦では3月22日なので、一の谷の合戦の約1年後。嵐の中、風向きが北東に変わったことを知った義経は、屋島を奇襲せんとわずかの手勢で船を出す。通常3日かかる距離を(追風で)数時間で到着、平家の拠点、屋島を奇襲。この時、義経を庇って楯となり命を落としたのが、奥州から付き従ってきた佐藤継信。二月二十日夕刻には、扇の的を那須与一が射貫き、奥州勢がめざましい働きを見せた。
 
 屋島から逃れた平氏軍はさらに瀬戸内海を西へと進んで、長門国彦島(ひこしま)に集結。彦島は、山口県下関市の南端にある陸繋島で、つまりは関門海峡の本州側最先端。これから起こるのが源平合戦のクライマックスでありラストステージ、壇ノ浦の合戦。壇ノ浦(長門国赤間関壇ノ浦)は現在の山口県下関市であり、つまりは関門海峡の戦い、と言ったほうがわかりやすい。

みもすそ川公園、すなわち壇ノ浦



 
 元暦二年(平氏方は寿永四年)三月二十四日(1185年4月25日)。
 
 義経は摂津の渡辺水軍、伊予の河野水軍、紀伊の熊野水軍などを味方につけて840艘。平氏軍は500艘。宗盛の弟の知盛が大将で、午前中は、平氏軍に有利な潮の流れであったという。
 
 対岸の豊前国田ノ浦(福岡県北九州市門司区田野浦)には範頼軍3万余騎が布陣し、渚から沖に向けて遠矢を射かけた。
 
 突然、千頭、あるいは二千頭ともされるイルカの大群があらわれ、そのイルカが、源氏軍の船から平氏軍の船に向かって押し寄せてきた。イルカは普通、百頭ぐらいの群れを作るが、時々、千頭ぐらいの大群になることがあるという。「イルカ 千頭」で検索ですると、話題の映像が見られますのでそちらをどうぞ。

ここをイルカ千頭!


 
 イルカの大群を見た平宗盛が、陰陽師の安倍晴信(あべのはるのぶ)に占わせたところ、「このイルカが沖へ戻っていったら源氏が滅びる。平氏の船の下を通り過ぎたら、平氏が危うくなる」と占い、安倍晴信が言い終わらないうちに、平家の船の下を、イルカの群れが通っていった。
 これは潮の流れが変わったことを意味しているとされ、以後、源氏軍が優勢に転じ、とうとう平氏軍を追い詰めた。平氏軍の敗北が決定的になり、「もうこれまで」と、覚悟を決めた平氏たちが海に身を投げる。外洋に逃れて対馬をめざす・・・という考えはなかったらしい。


 清盛の異母弟である平教盛と平経盛の兄弟は、鎧の上に碇(いかり)を巻いて海に身を投げた。
 平教経(のりつね)(清盛の甥、平家でいちばんの猛者)は、敵の大将の義経を道連れにせんと、義経の船を見つけてこれに乗り移った。が、義経は、身軽に船を飛び移って逃げた。これが義経の八艘飛び。
 
 平知盛(清盛四男)は、「見るべき程の事をば見つ(見届けなければならないことは見届けた)、今はただ自害をせん」と、鎧二領を着て、乳兄弟の平家長と共に入水。
(注・平家物語によれば、知盛は碇を巻いて海に沈んだとは書かれていない。碇知盛は、のちの歌舞伎の創作である。)

碇知盛。向こうは義経八艘飛び。

 二位の尼殿は、安徳天皇を抱て入水。この時、草薙剣と神璽(八尺瓊勾玉)を納めた箱を持って入水するが、箱は浮かび上がり、源氏軍に回収される。
 安徳天皇の母の建礼門院(平徳子)は、二位の尼と安徳天皇が入水したのを見て、硯(すずり)と御温石(おんじゃくいし)を左右の懐へ入れて海に身を投げるが、源氏軍に引き上げられて助かってしまう。


壇ノ浦、安徳天皇入水碑


 
 大納言佐局(藤原輔子、平重衡の妻、安徳天皇の乳母)は、八咫鏡を納めた箱を海へ投げ込もうとしたが、武士たちに取り押さえられ、箱も回収される。(『平家物語』によれば)武士たちが箱を開けようとしたところ、たちまち、彼らの目がつぶれて、鼻血を出した。生け捕りにされていた平時忠が「箱の中身は凡人は見てはならない」と告げ、武士たちが恐れおののいたとある。ここで凡人というのは、摂政、関白以外の人のこと。つまり、摂政関白以外の(位の低い)凡人が箱の中を見ると、目がつぶれて鼻血を出して死んでしまうのだという。恐るべし身分差別。
 ということは。箱を開けて鏡を出せば、それを見た位の低い武士たちは目がつぶれてしまうわけだから、平氏は戦に勝ったのではないだろうか? なぜ、その恐るべし最終兵器を使わなかったのか?


和布刈(めかり)神社、仲哀天皇9年(西暦200年)、神功皇后が三韓征伐からの凱旋いあたり早鞆の瀬戸(関門海峡のいちばん狭いところ)のワカメを神前にささげたとの古事がある。潮の満ち引きを司る月の神様「瀬織津姫」を祭り、壇ノ浦の対岸、豊前国田ノ浦にある。和布刈(ワカメカリ)→メカリ?


 
 壇ノ浦の戦いは夕方に終わり、平氏は滅亡した。
 
 三種の神器のうち、八咫鏡と神璽(八尺瓊勾玉)は回収された。しかし草薙剣は見つからなかった。
 『平家物語』では、壇ノ浦に沈んだ草薙剣のゆくえを陰陽師に占わせたところ、「竜神の化身であった安徳天皇が海の底に持ち帰った」と告げられたとしている。草薙剣は今も、壇ノ浦の海底にあるのだろう。     (秋月さやか)

(今回の写真は、九州ご出身のIDEAさんよりご提供いただきました。ありがとうございました!)


めかり神社海洋散骨。平氏ご子孫は、ご先祖ゆかりの地での散骨もよろしいかと思います。


関門海峡トンネル


久里浜から北九州までフェリー出てます。関門海峡を通って壇ノ浦を見るためだけに乗ってみようかしら、と思ってます。

 
 
 

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