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堀川夜討、土佐坊昌俊と金王丸の謎     吾妻鏡の今風景31

 鎌倉に入れなかった義経は、宗盛を連行して再び京へ戻っていった。それが六月九日、その12日後の元暦二年六月二十一日、近江国篠原宿で宗盛斬首。
 
 元暦二年七月九日(1185年8月6日)午の刻、京で地震。(この天変地異により、翌月八月十四日に元号が文治に改元されたので、この地震は文治地震と呼ばれる。元暦のうちに起こったのに。)
 平家の祟りではないかと人々は恐れ、陰陽寮は、正しい政治がなされていないことを諫めるために天がもたらした地震と占ったらしい。陰陽寮、ずいぶんと強いことが言えるのは、占いだから、なのか。
 後白河法皇の館は地震で倒れた。当時、後白河法皇の住まいは法住寺殿ではなく六条殿であっただろう。御所から南西の六条通りにある、もとは平業忠の住まいであった六条西洞院(にしのとういん)。六条通り、つまり堀川通は、堀川という川沿いの道で、義経のいた六条堀川館もその通り沿いに建っていたが、こちらは地震があっても無事で、これは不思議なことだと人々は噂しあったという。なお、堀川館は、佐女牛井町にあたりにあったとされ、現在の住所区分では五条になるらしい。
 
 梶原景季が、頼朝の命を伝えるために堀川館を訪れるが、義経は病気を理由になかなか景季に会おうとはしなかった。景季は、義経が仮病を使った、とのちに頼朝に報告したが、しかしたぶんそうではない。義経はストレス性の適応障害に陥っていたのだろう。
 批判ばかりの梶原親子(義経の同僚)、そして自分を認めようとしない頼朝(上司)。現代であれば、義経は心療内科で診断書、しばらく有給休暇をとるべきだったのかもしれない。しかも頼朝は義経に、行家を討てと命じた。
 義経は十月十一日に後白河法皇のもとへ行き、「行家叔父を殺せと頼朝様が命令を出したが、それには従えません。こうなったら頼朝追討の太政官布告をいただきたい。」と訴える。
 
 一方、頼朝は、義経を誅するべく土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)を派遣。『平家物語』延慶本では、昌俊は配下60騎ほどを引きつれて九月二十九日に鎌倉を出発して十月十日に京に到着したとある。
 十七日、昌俊は義経のいる六条堀川館を襲撃(堀川夜討)。義経の家人達は出払っていて手薄(なぜ緊急時に出払っていたのかがわからないが)、義経は少数の手勢で応戦、そこに源行家の軍勢も駆けつけ、昌俊は鞍馬山に逃げ込んだ。義経は翌日の十八日に、頼朝追討の宣旨を後白河法皇から受け取り、挙兵の準備を始める。
 
 さて、この土佐坊昌俊。出自がよくわからない。一説によれば、大和国興福寺金剛堂の堂衆(僧侶)で、大和国針の庄の代官を夜討ちにするほどの乱暴者、土肥実平に預けられ、のちに源頼朝の御家人となった。祖父は秩父党の河崎基家であったと伝わる。
 
 秩父は古代より馬や銅の産地として栄え、平良文の曾孫の平武基が秩父氏初代、その息子の基家が武蔵国河崎に居住して河崎基家となった。河崎は神奈川県川崎市川崎区、川崎駅の北東にある堀之内町は、河崎氏の館の堀からきた地名であるとする。
 基家は義家に従って前九年の役・後三年の役に加わり、義家は、この戦いの勝利は基家の信奉する八幡神の加護によるものとして、武蔵国豊嶋郡谷盛(現在の渋谷)に八幡宮を勧請し、基家は武蔵国豊嶋郡谷盛庄をも賜った。それが現在の渋谷金王八幡宮であるが、たぶん当時は谷盛八幡宮で、基家の息子の重家が堀川天皇から渋谷の氏(家名)を賜り、重家が治めていた相模国高座郡(神奈川県)は渋谷荘となった。そして武蔵国豊嶋郡谷盛にあった八幡宮も渋谷八幡宮になり、いつしかその地名が渋谷になっていった…ということではないのか。

 では、土佐坊昌俊の父は誰なのか。基家の孫ということは、基家の息子の重家が父親なのか、それとも重家の兄弟の誰か、なのか。


渋谷金王八幡宮


 
 この土佐坊昌俊の正体が、実は渋谷金王丸であったという説がある。
 渋谷金王丸とは、渋谷氏が八幡宮に祈り、その妻の胎内に金剛夜叉明王が宿る夢をみて授かったとされる男子で、源義朝の家人となって「保元の乱」で活躍、「平治の乱」では義朝と共に八騎(義平、朝長、頼朝、源重成、平賀義信、鎌田政清、金王丸)で都落ち、京にもどって、主の死を常盤に報告して姿を消した、という人物。一説によればその父親は重家。つまり基家の孫。土佐坊昌俊も、基家の孫ではあるので、となると2人は従兄弟だったのか、それとも兄弟だったのか、はたまた同一人物だったのか?
 
 つまり、いったん姿を消した金王丸が、土佐坊昌俊と名乗って鎌倉の御家人になった、というのである。頼朝のために忠義を尽くそうとしたが、かつての主君、義朝の息子である義経を討つことはできなかった、というのが、歌舞伎の渋谷金王丸伝説のストーリー。が、こういうややこしいストーリーって、歌舞伎や浄瑠璃の創作によくあるので、真実度は低い。なお、金王丸の生年月日は、永治元年八月十五日(1141年9月16日)。旧暦八月の満月生まれ。
 
 重家についてはあまりよくわかっておらず、その妻が誰であったのか、息子は重国の他に誰がいたのか、まったく不明。
 が、もしも、たとえば。谷盛の館で年老いた重家に仕えていた侍女(側室)が子を授かり、(しかし、正妻の手前、おおっびらにできなかったとしたなら)、館の侍女が金剛夜叉明王が宿る夢をみて男子を授かったことにしたに違いなく、そうして生まれた男子を、のちに義朝に託したとしたなら? 
 渋谷重家の息子の渋谷重国(しぶやしげくに)は渋谷荘(高座渋谷)を継ぎ、義朝が敗れたのち、陸奥国へ逃れようとした佐々木秀義を渋谷荘に引き留めて婿に迎えた。もしもその時、金王丸を渋谷荘に匿い、のちに土肥実平に託したとしたなら? 
 
 土佐坊昌俊は、鞍馬山に逃げ込んで捕られ処刑されたと伝わるが、一説によれば、密かに義朝の弟である護念上人を頼って越後国蒲原郡奥山荘に落ち延び、土着したという言い伝えもある。奥山荘は、新潟県新発田市加治川(かじかわ)地区から、胎内(たいない)市、岩船郡関川村にまで広がる地域で、新発田市下石川には、渋谷金王丸と刻まれた石碑が残っているそう。
 
 さて、重家の兄弟の一人が秩父重綱(ちちぶしげつな)で、武蔵国秩父郡吉田郷(現在の秩父市)に館があった。その息子に、重弘(しげひろ)、重隆(しげたか)。重弘(しげひろ)は長男であったが、家督は重隆が継いだ。しかし、重弘の息子の重能と、重綱の後妻が結託し、重隆と対立する。重能は武蔵国大里郡畠山荘(埼玉県深谷市)に居住して畠山を名乗った。
 一方、重隆は大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町)に居住して源義賢を娘婿に迎えるが、大蔵合戦で義平に滅ぼされる。(重綱の後妻は義平の乳母であったので、つまり義平は乳母を助けた。なお、木曽義仲の母は重隆の娘なので、義仲は秩父党のメンバーとも血縁ということになる。)
 大蔵合戦ののち、大蔵館は畠山一族の管理下となり、重隆の息子の一人、能隆は河越に居住し、川越氏を名乗る。その息子の河越重頼(かわごえしげより)は保元の乱で源義朝の陣に従い、川越館を継いだ。重頼の妻は比企尼の娘の一人で、その娘が郷(さと)が義経に嫁いだ。つまり、土佐坊昌俊の堀川館襲撃時、堀川館にいたことになる。


金王八幡宮の館の基礎石が残っている。
雪ノ下から朝比奈のほうへ


秩父鉄道


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