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突然会社に行けなくなった日のことを、肯定できるようになるまでの話

もう20年以上前、ある日突然、会社に行けなくなったことがあった。
当時は、メンタルを病んで休職するなんて、情けないような気がしたし、遠回りをしているように感じた。けれど、もしこの経験をしていなかったら、今の「しあわせに働く」私はいない。この寄り道で学んだことを、書いてみたい。


憧れの先輩に認められたかった

当時20代半ば。ベンチャー企業で、憧れの先輩のもと、必死に働く日々だった。もともと「仕事ができない」社員だった私は、「仕事ができる」先輩に憧れ、その先輩に運良く拾ってもらえた。

先輩は、クールでスマートな女性。

会議の途中に入ってきても、さっと理解して適切な言葉をばっと投げて去っていく。女性活躍に意志をもってやっている人だった。

そんな先輩に認めてもらうために必死で仕事を覚えた。

先輩から褒められた記憶は無いけど、仕事をたくさん任せてくれた。それが私にとっては、「認められている」と感じられることだった。

そして、つぶれてしまった

だけど、すこしは役に立てるようになってきたころから、おかしくなってきていた。今で言う、その先輩の劣化版AIになったような感覚。自分ではなく、先輩の正解を探すような、なにがうまくいっても、自分が「できた」のではなく、先輩の成果と感じるような。

決して、先輩は、成果を横取りするとかそんなことはしていない。だけど私は、自分がどこにもいないような、そんな虚無感や閉塞感を覚えてしまっていた気がする。

現実を少し変えたくて、家を買ってみたり、妊活してみたりした。結果的には、それがよくなかった。多忙な仕事、引っ越し、そして流産が重なって水があふれるように、メンタルがやられてしまった。

会社に行けなくなった日

直接のきっかけはなんだったか、記憶が無い。

ただハッキリと覚えてるのは、呆然と会議室から戻って、席に着いたら、やたらと周りの音が大きく聞こえ、耳に響く。ひとが引き出しを閉める音が、怖い。怖くて涙が出る。

こりゃダメだ、と思ったのは覚えてる。が、そこからどうやって休職に入ったのか、それはさっぱり思い出せない。

すぐ病院に行って、「抑うつ状態」と言われ、診断書もらってすぐ休ませてもらったと思う。

休みに入って…

休みに入ってもしばらくはよく眠れず、妙に朝早く起きてた。幼少期のイヤだったことなどが浮かんできて普段仲良しの母とも話せなくなった。

夫がそばにいたはずだけど、記憶の中にはいない。友達とも会わなかった。ひとりで掃除するか、寝てるか。そんな日々を1ヶ月ほど過ごしたような気がする。

少し気力が戻ってきた頃、「どうせ会社を休んでるなら・・・」と、この機会に運転免許を取ろうと考えた。私が買った家は、とても田舎で、車がないと生活にかなり不便だった。なので「あ、ちょうどいい」と思ったのだ。

メンタル不調で休ませてもらってるのに、そんなことしてていいのかな?という少しの罪悪感があったが、医師に相談すると賛成してもらえたので、思い切って申し込んだ。毎日、自転車で田んぼ道を通って教習所へ。

意外なことで元気に。

若い子に交じって学科、技能教習を受ける。ただ免許を取るために始めたことだけど、やってみると意外と、そこに通うことそのものに充実感を覚えた。運転はド下手で、教官たちを唖然とさせたものだけど、それでも私は、ぐんぐんと元気になっていく手応えがあった。

それまでの数年、たいしたインプットもないのにひたすらひたすらアウトプットをすることを頑張っていたのだと思う。

そんな私にとって、座っていればいろんなことを親切に教えてくれる教習所というのは、癒やしになった。

夏前に始めて、秋に免許が取れたような気がする。その頃から復職を考え始め、様々な人のご配慮で、件の先輩とは違う上司の下で復職した。

この経験からの学び

この時の経験は、その後の私の社会人人生に大きく影響している。一瞬で世界が変わったというようなものではなく、その後の20年、ずっと私に伴走して、いろいろなことを教え続けてくれてる。

それはまず、「誰かに認められるために」する仕事が、誰かから認められることは無い、ということ。

先輩は、仕事のできない私を導いてくれて、仕事の仕方を私は覚えたけど、当時の私には自分自身の意思がなかった。最初はもちろんそれで当たり前。

だけど、ずっとそのままでは、どんなに作業がうまくなっても、指示を受けずに(承認されることを)考えて行動ができたとしても、その中身は薄い。

仕事は、認められるためにするものではなく、自分が実現したいと信じることを形にすることで、「人の役に立つ」もの。その結果として、認められることもあればそうで無いこともある。

言い換えると、こうも言えそうだ。「モチベーション」は、自分持ちがルールとマナーである、ということ。

私は、憧れの先輩に褒めてもらえず、当たり前のように”使われて”、ポキッと折れてしまったのだと思う。つまりは、モチベーションを「先輩」という外部に依存していたということ。

サラリーマンである以上、評価を全く度外視して働くなんてナンセンスだけど、そのためのモチベーションは、他人の「評価」ではなく、自分の中に何か持ってないと一喜一憂せざるをえなくなって、とてもやってられない。そんな不安定なひとと一緒に働く仲間も大変すぎる。

そして、「その仕事だけ」してても向上していかない、ということにも気づいた。

1つのことを突き詰めるのは、それはそれで素晴らしい。けど、突き詰めるためにも、いろんなインプットが必要だということを知った。

直接仕事に役立つ知識はもちろんだけど、それ以外の世界、遊び、芸術、全てに学びがある。それらは精神面の強さにもつながるし、仕事の引き出しになることも少なくない。すっかすかの状態で働き続けても、なんにも出てこない。いずれはやはり、ぽきっと折れるしか無いのだ。

ほんの一例だけど、この"事件"を起点に、こんなことをじわじわと学んできた。

メンタルを病んで休職してしまったことで、たくさんの人に迷惑をかけた。とりわけ、先輩のことは傷つけてしまったこともあったと思う。未だにそれは恥ずかしく、彼女には顔向けできない。

だけどこの経験は、間違いなく私の仕事観を大きく変えたターニングポイントの1つになった。20年経った今では、ネガティブな出来事ではなく、むしろ「してよかった」経験になっている。

今、頑張ってきた仕事に空しさを覚えて「もう頑張れない」ってなってる人や、メンタル不調になってる自分を恥じてる人の、参考になったら何より嬉しい。

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