見出し画像

聖なる響きに耳を澄ます

耳をそばだてて、聴く。一音一音を、音の高低と長さを。次にどんな音が来るのか全く知らないままに聴く曲は、闇の中にチカッと瞬く灯りをひとつひとつたどっていくような覚束なさと、どこへ行くかもわからない期待で、全体としてどうだったのか覚えていない。初めての音を掴もうと、ただ一心に聴いていた自分の真剣さだけが残っている。

連なりが意味を持つ前の音。メロディとして認識される前の音。全体像が見えなくて、もどかしさを感じるような。丁寧に丁寧に追いかけていくしかない、はじめての音たち。

何千回も聴いてきた声が、聴いたことのないあたらしい音を歌うとき、わたしはわたしのすべてでもって聴こうとする。でも、この高さの音の先はこれくらいの音程になるのじゃないか、とか、この歌詞の先のことばはこうじゃないか、とか、いろいろと先回りしてしまうこともしばしば。そういう、記憶を探ることも含めて、わたしはわたしの全部をつかってあたらしい音を迎える。


それくらいの真剣さで、内なる音を聴けないだろうか、と思った。


ヨガをしていたとき、聖音オームを唱えている間、わたしは自身の身体という神殿をその響きが渡っていく様子をイメージしていた。オームは、外からやってきて内に風穴を通し吹き抜けていく、そんなイメージ。

聖なる音って何なのか。それは内なる音だと、目にした本にあった。外からもたらされるものではなかったと知って、少しくショックを受けた。聖なる音は内側で響く。内側に聖音はある。けれど、聴いたこともないその音をどうやって聖音だとわかればいいのか。それはもう、未知の音を真剣に聴いて丹念に音を見つめていくしかないのだろうなと思った。あたらしい歌を一心に聴くときのように。

なによりも、自分の内に聖なる響きがあるのを信頼すること。他の誰が奏でるのもない、この自分が奏でる聖なる音が、きっと誰のなかにもあるのだ。どんな響きなのか、耳を、こころを、澄ます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?