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歴史総合(戦後史) 第2講 東西対立

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米ソ対立の始まり

東ヨーロッパ諸国がソ連の支配下に入ると、共産主義政党が他の政党を吸収合併していく過程が進みました。共産圏の拡大に対し、1947年には、アメリカがソ連の拡張を阻止する封じ込め政策トルーマン=ドクトリン)を宣言しました。続いて、アメリカ国務長官マーシャルがマーシャル=プランを発表し、ヨーロッパの経済復興を支援しました。ソ連はマーシャル=プランの拒否を東ヨーロッパに求め、コミンフォルムを設立して共産主義陣営を統制しました。1948年にはチェコスロヴァキアでの共産党によるクーデタ(チェコスロヴァキア=クーデタ)が起こり、共産圏の更なる拡大によって東西対立が決定的となりました。ドイツでは西ベルリン封鎖やその対抗措置としてのベルリン空輸が行われました。1949年には、ソ連がCOMECONを設立し、ドイツはドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)に正式に分割されました。

冷戦

第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする資本主義陣営(西側陣営)と、ソ連を中心とする社会主義陣営(東側陣営)に分かれ、「冷戦」と呼ばれる直接的な軍事衝突がない対立状態が続きました。この対立は資本主義と社会主義のどちらがより良い未来をもたらすかという世界観の対立でもありました。


年表

1947年

  • トルーマン=ドクトリン発表:アメリカがギリシア内戦に介入し、共産主義の拡散を封じ込む政策を開始。

  • マーシャル=プラン発表:アメリカがヨーロッパ経済復興援助計画を発表し、ヨーロッパの再建支援を行う。

  • コミンフォルム設立:ソ連が東ヨーロッパ諸国の共産党を統制する国際組織を設立。

1948年

  • チェコスロヴァキア=クーデタ:共産党がチェコスロヴァキアでクーデタを行い、完全な共産主義体制を樹立。

  • 西ベルリン封鎖(6月):ソ連が西ベルリンへの陸路アクセスを封鎖、西ベルリンの孤立を図る。

  • ベルリン空輸:アメリカ・イギリスが西ベルリンへの空輸作戦を開始し、封鎖に対抗。

1949年

  • ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立:西側占領地区に資本主義体制の西ドイツが成立。

  • ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立:東側占領地区に社会主義体制の東ドイツが成立。

  • COMECON設立:ソ連が東ヨーロッパ諸国と経済相互援助会議を設立し、社会主義陣営の経済協力を強化。


重要語句

トルーマン=ドクトリン

1947年にアメリカの大統領トルーマンによって宣言された外交政策。この政策は、ソビエト連邦の影響力の拡大を防ぐため、ソ連勢力の「封じ込め」を行い、共産主義の拡散を阻止することを目的としていた。ギリシアとトルコへの政治的、軍事的支援を提供することで、これを具体化した。

マーシャル=プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)

アメリカの国務長官マーシャルが1947年に提案した経済援助計画。ヨーロッパの再建を目的とし、戦後の荒廃からの回復を促進するために巨額のアメリカ資金が提供された。この計画は、共産主義への支持を減少させる目的があった

コミンフォルム(共産党情報局)

1947年にソビエト連邦が設立した国際共産主義組織。東ヨーロッパの共産党を調整・統制する目的で作られ、社会主義陣営内の統一とソビエトの指導性を強化するための政策が推進された。

チェコスロヴァキア=クーデタ

チェコスロヴァキアで共産党が非共産党政府を転覆し、共産主義政権を樹立した事件。1948年2月、大統領ベネシュのもと、チェコスロヴァキアがマーシャル=プランの受入れを決めると、ソ連はこれを撤回させ、さらに共産党は街頭デモを組織して、ベネシュを辞任に追い込んだ。これにより、チェコスロヴァキアはソビエト連邦の影響下に完全に入り、東ヨーロッパの共産化が進行した。

西側占領地区での通貨改革

第二次世界大戦後、1948年にアメリカ、イギリス、フランスが管理する西ドイツの占領地区で行われた経済改革の一環。この改革により、新たなドイツマルクが導入され、インフレーションが抑えられ、経済の安定化が図られた。この改革は西ドイツの経済再建を加速させ、東西ドイツ間の経済的格差を拡大する結果となった。

西ベルリン封鎖

1948年にソビエト連邦が西ベルリンへの全ての陸路アクセスを遮断した事件。これは西側の通貨改革への反応であり、西ベルリンが食料や燃料などの供給を受けることが困難になった。この封鎖は西側諸国とソビエト連邦間の緊張を高め、冷戦の象徴的な出来事となった。

ベルリン空輸

西ベルリン封鎖に対抗して、アメリカとイギリスが実施した大規模な空輸作戦。1948年から1949年にかけて、西ベルリンの市民に食料、燃料、医薬品などの必需品を空から供給し続けた。この作戦は西側の決意と能力を示すものであり、封鎖が解除されるまでの約1年間続けられた。

ドイツ連邦共和国(西ドイツ)

1949年に西側占領地区に成立した国。アメリカ、イギリス、フランスの管理下で、資本主義的経済体制と民主的政治体制が確立された。西ドイツは迅速に経済復興を遂げ、冷戦中の西側諸国の重要なメンバーとなった。首都はボン

ドイツ民主共和国(東ドイツ)

1949年にソビエト連邦の占領地区で成立した国。社会主義体制が採用され、ソビエト連邦の強い影響下に置かれた。東ドイツ政府は厳格な統制経済を実施し、政治的自由は大きく制限された。東西ドイツの分断は冷戦の象徴的な分裂とされ、1990年のドイツ再統一まで続いた。首都はベルリン(東ベルリン)。

「冷戦」

第二次世界大戦後、アメリカとソビエト連邦を中心に形成された二つの大きな国際政治的勢力間の緊張状態。この期間は、直接的な軍事衝突は避けられたものの、代理戦争、政治的対立、経済的競争、宇宙開発競争など多岐にわたる対立が見られた。


歴史総合プラスアルファ

ジョージ・ケナンと封じ込め政策

ジョージ・ケナンはアメリカの外交官であり、冷戦期のアメリカ外交政策に多大な影響を与えた人物です。彼が1946年に「長文電報」として知られる報告をモスクワからワシントンに送り、その中でソビエト連邦の外交政策と戦略の本質を分析しました。ケナンはソビエト連邦の拡張主義を指摘し、これに対抗するために「封じ込め」戦略を提唱しました。この考え方は、後のトルーマン=ドクトリンやマーシャル=プランの基礎となり、アメリカの冷戦における基本戦略として採用されました。

鉄のカーテン

「鉄のカーテン」という表現は、ウィンストン・チャーチルが1946年に行った有名なスピーチ「鉄のカーテン演説」に由来します。この演説はミズーリ州のフルトンで行われ、チャーチルはソビエト連邦が東ヨーロッパに設定した影響圏を批判しました。彼は、ヨーロッパがバルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、「鉄のカーテン」によって分割されていると述べ、西側諸国に対して警戒を呼びかけました。この表現は後に冷戦期の東西の分断を象徴する言葉として広く用いられるようになりました。

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