見出し画像

悠久の下赤塚

僕は2012年4月から2016年の3月の4年間。板橋区赤塚に住んでいた。

大学を卒業して東京都八王子市から故郷の栃木県宇都宮市で2年間過ごし、再び東京に戻った時に4年間住んでいた。
僕個人としては23区で初めて住んだ場所だ。

なんで下赤塚に住もうと思ったかは本当に家賃が安くて交通の便が良い。それだけだった。
下赤塚に引っ越した時点で当時の僕は無職。仕事のアテなんて無かったけど、取り敢えず住む場所決めて引っ越してから仕事探そうなんてクソ甘い考えで引っ越したのは覚えてる。

駅から徒歩8分、家賃52000円、ユニットバス付きの1Kの木造アパートに4年間住んだ。
そのアパートは建物名がメロディックパンクバンドの屋号でありそうな感じだったのも覚えてる。
僕は勝手に自分の住処を「赤塚エモヴァイオレンス荘」なんて呼んでいた。厨二病全開かよ。

家賃の安さもあるけど、地下鉄赤塚駅は有楽町線と副都心線が通っていて、池袋・新宿・渋谷に一本で行けるってアクセスも住む決め手だった。思えば東武東上線は殆ど使わないで地下鉄ばかり使っていたな。

大学時代は八王子市に住んでた身としては憧れの23区住みだったけど、赤塚という街は23区とは思えないローカル感に溢れる街だ。
電車で2駅で埼玉県和光市という板橋区の最北とも言える立地、駅前は恐らく昭和の時代から大して変わってないだろう街並み。四葉方面はとてもじゃないけどここは本当に23区かと疑いたくなるだだっ広い風景。
何一つイケイケ感も無く、何一つ映えやしない街で24歳から28歳まで過ごした。

でもローカル感溢れる赤塚という街が僕は凄く好きだった。
シンプルに都心に遊びに出やすいのもあるけど、北関東の田舎が故郷の自分にとってはこの地味な下町がどこか居心地が良かった。
街の中にある何気ない生活の匂いや人間の空気、特別な娯楽なんて一つも無いけど、でも確かに何かある場所。その何かってのは何一つ映えもしない人間の営みだったのかもしれない。
駅前の商店街の中にあるJUMPって肉屋には本当にお世話になったな。

都心に遊びに出掛けてこの街に帰ってくる度に「帰って来たな。」って気持ちになったし、縁もゆかりも無い街が気付いたら僕の安息地になっていた。
それに自転車あれば本当に色々捗った。西台のラーメン二郎も上板橋の中本の本店も自転車圏内だからラーメン大好き人間の僕としては非常にありがたかった。
駅前にあったじょっぱりラーメンも本当に好きで、夜中の酒で酔った体に最高に沁みたな。
あと川越街道沿いにある「牛じろう」ってホルモン屋が凄く好きだったな。大好きな店過ぎて友達を何度も連れて行ったりした。
たまに光が丘方面まで自転車を走らせて、光が丘公園で何もしないをする時間も堪らなく好きだった。
駅前にあった古びたゲーセンで無意味にスト2やる暇つぶしもした。まあそのゲーセン潰れちゃったんだけど。

24歳から28歳って若い時間をこの街で過ごしたのもあって、個人的な思い出も沢山ある。
23区の最北の街に友達が遊びに来てくれたのもそうだし、その友達と近所の東京大仏観に行ったりしてみたり。
その頃付き合ってた恋人と赤塚と千葉県船橋市をお互い行き来したりもしたなあ。てか板橋区と船橋市って普通に地味に離れてるな。よく往復生活してたな僕。

エモヴァイオレンス荘に関しては、目と鼻の先に大家の家があったから家賃は手渡しだったなとか、地味にコンビニ遠くて煙草や酒切れた時行くの面倒だったなとか、住み始めた最初の2年間は隣人が本物の狂人(くるいんちゅ)で昼間に掃除機かけてるだけでカチコミかまして来て怠かったなとか、部屋のスペックに文句は無かったけどキッチン狭かったのだけは不満だったなとか。後は本当に色々な人が遊びに来た時の思い出とかかな。ここには書けないような出来事もあったりしたし。

そのエモヴァイオレンス荘をなんで離れたかってのは、27歳の頃から頻繁に金縛りとか心霊現象が起きて流石に耐えきれなくなったのと、もっと都心に近い場所に住みたくなったのもあり、4年間過ごして引っ越した次第。

少し前に仕事で久々に下赤塚に行く用事があったんだけど、下赤塚の街は少しだけ変わっていて、それでも変わっていなかった。
スーパーみらべるが東武練馬から赤塚に移転したのだけは不満だったけど。僕が住んでた頃から赤塚にあって欲しかったな。

2012年から2016年の間は本当に色々あった時間だった。某印刷会社の12時間拘束の夜勤で憔悴し切ってたけど、空いてる時間でGuilty Forestちゃんと更新してたとか、25歳の頃は本当にメンタル終わってたなとか、人生で初めてオリジナルのバンドやったりしたけどギターのやつが狂人(くるいんちゅ)過ぎて本当に精神壊れかけてたなとか、婚約者が出来たけど結局最後はさよならされちゃったなとか。ここに書けないことも本当に多かったし、あの頃から大分時間が経った今、思い出したくない事も忘れたくない事も思い出せない事も忘れてしまった事もたくさんある。

だけど赤塚の街はあの頃とはほんの少しだけ形を変えて今も変わらずにそこに住む人々の空気を食べて存在している。
あの街は確かに何もなかったけど、でも確かに何かあった場所だ。
あの街で過ごした4年間は僕にとって最後の思春期だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?