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監視の行き着く先

最近。

近くの児童館からパチンコが撤去されたらしい。

なぜかその児童館には20年前から子供用のパチンコ台がおいてあって、子供たちは日がなパチンコを廻して家族から回ってこない愛の代価品としていた。

パチンコはパチンコ玉が流れていき、そのパチンコ玉がちゃんとたまると、絵柄がもりあがって沢山のパチンコ玉があるような絵が見られた。

僕もそのひとりだ。木造の、なぜかサンデーが19年分詰まっていた図書室をもっていた児童館はいつの間にか小学生しか使えない建物になっていて、いつのまにか年齢的には中学生になっていた僕はその内実をしらないままでに行かなくなってしまった。

そして、パチンコ台が撤去されたと聞いて「終わった」と思った。

終わったのは時代。一つの時代。輝かしくて無駄にきらきらしていた、あのパチンコ台があった時代だ。

でも、僕は結局パチンコもパチスロもしない大人になった。子供の頃に遊んで楽しかった遊具が大人になっても楽しいとは限らない。ただその記憶のなかにはパチンコだけがある。

パチンコが撤去になった理由は、大人の指導員がパチンコで遊んでる子供をみたからだ、と聞いた。

監視カメラで。

監視カメラで監視されていた子供たちの間では、もはや児童館は楽しい放課後のごっこ遊びの場所ではなく、「学校の延長で子供を演じ続けなければならない場所」に変ってしまったのだと思う。子供たちが大人に張り付いて「たのしいです、たのしいです、たのしいですー」と言いながらまったく何が楽しいのかわからないような振舞をしている所を見たことがあるけれど、「楽しい振舞をする子供」の正しい演じ方だったのだろう。

大学に、授業が終わった後かならず先生に質問にいく女の子がいた。

その女の子は、先生から疎まれていた。大学という場所では「優秀かどうでもいいか」という判断基準が有り、高校時代までのようなキラキラした先生受けするような生徒は不用だったのだ。

監視。


監視というか、監視。

監視の先にあるのはそうした振舞、すなわち虚構が現実を食らいつくしてしまう姿なのかもしれない。子供は大人の振りをしたり背伸びしたりしてはいけない。

プログラマー少年が説明したプログラム(超簡単!)を、テレビのディレクターが「ぜんぜんわかんない」というわかろうとしないコメントを流していた。天才少年はこうして年齢不相応な相応さを求められていた。

監視。

監視カメラが一斉に動き出して、その動きをずうっと眺めるという暗闇の展示をICCでみたことがあった。それは毛利さんという女性のかたの展示だったと記憶する。記憶違いかもしれない。そのコンセプトは単純で明快で、監視カメラの動きをみせることで監視を意識させるということだ。

監視を意識しなかった。ぼくは。

監視を意識したことは2つあった。音。ゲームをやっている時に両親のどちらかが帰ってくる音。それを聞いたらゲームをやめなければならなかった。

声。

適当な恫喝で子供がゆうことを聞くと信じていた教師の怒鳴り声。その怒鳴り声は演劇的な調子そのものというより、悪しき幻惑の演劇だということをあとで知った。知ったときには全部遅かった。

もし監視カメラがあるなら言ってやりたかった。飢えて乾いている。お金が足りない。ものも時間も体力も。

監視カメラはそうした言葉を聞かない。その時は監視していない。

監視していない。それが監視だ。監視している。それも監視だ。

監視、監視。監視の果てにある正解は「何もしない」だ。ただしい選択肢をしているんだ、君は。何かしてはならない。萎縮して恐怖しろ。恐怖しないで無になれ。そういう場所になった。児童館はそういう場所になっていた。パチンコを棄てることで、そうした萎縮を正答とする正義を執行した。これから児童館はもっと巨大に膨れあがっていく。外の買い食い、外の電車、外の家出、外の人間関係。最後は人の心が児童館になる。

パチンコ台は撤去されてしまった。

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