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あと一度だけ『水戸黄門』が見たい。

2010年代は、60年代以来「日本人らしいもの」として認められてきたあらゆる日本の娯楽が転換した時期だった

ぼくにとって、とても寂しい時代になった。竹の籠だとか、寄せ木細工だとか、今迄なんとなく身近にあったそういうものもこれからどんどん無くなっていくだろう。もちろんそんな日本像自体フィクションに過ぎないわけだけれど、何に寂しさを感じるかについてとやかくいうのは野暮に過ぎるだろう。

もっとも端的になくなったのは時代劇だ。時代劇というのは中近世を舞台にしたファンタジーで、実在の役職についた非実在の人物たちが大活躍するお話だ。小説の世界では未だに根強い人気を誇る時代劇も、いまや和田竜などのわずかな例外を除いて緩慢に死につつある。

14歳の男子と少し話をした。時代劇を知らなかった(「大河ドラマ」がその枠にあった)。時代劇を知らないことは罪でも罰でもない。でも寂しい。

むかし、時代劇を見ていた。とくに池波正太郎の『剣客商売』が好きで、渡辺篤史が大二郎をやっていた時の舞台セットはすばらしかった。

そして『水戸黄門』が好きだった。

水戸光圀公が諸国を漫遊していろんな事件を権力で解決する身も蓋もない話で、江戸末期から講談で広がり、明治には助さんと格さんを従えていくことになる。テレビで1960年代から放映されていた。

僕が印象に残しているのは、1983年から、西村晃が主演した水戸黄門だ。この西村晃はいかにもな好々爺として描かれていて、厳しい叱責と優しい呵々大笑で好きだった。今はこの身体をもつ老人の俳優はいない。

西村晃の水戸黄門は事件が起こっても世界は平和そのものだ。うっかり八兵衛がいたり、お銀がいたりした。毎日が繰り返しで、毎日が平和に奉仕していて、毎日がその平和の延長にあるはずだった。ベルリンの壁が消えてなくなるまで、日本はみんなゆるやかな成長の永遠を楽しみ続けることができたはずだった。そういう幻想を、終わらない日本中の事件と、終わらないでほしい日常の繰り返しの中に見ていた。

 水戸黄門の永遠は2010年代には完全になくなってしまった。2011年まで続いた水戸黄門は死んでしまった。死んでしまって、あとは永遠の革命だけが残った。

毎日が変革を迫られ、誰も幸福にならないまま書類の印鑑欄だけが増えていくような革命だ。それを馬鹿げているという人もいなくなった。ただ馬鹿げているだけだ。純粋に馬鹿。それを笑い冷笑しながら、他人にたいして実行できる、かつてなら「悪代官」と呼ばれた人々がこれほどまでに喜々として輝く時代はあっただろうか。

美しい川の映像や、夏の木立の木漏れ日や、舗装されていない山道を歩く一行の姿が美しかった過去はなくなってしまったのだ。

なくなってしまったんだ。

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