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李禹煥と池田学―絵について―

カイカイキキギャラリーでやっている現代美術と陶芸を結ぶ展示に、ふわりとニ枚の絵が飾ってある。画家は李禹煥。言わずと知れた「もの派」の理論的指導者の一人であり実践者であり画家である。一言で言えば画家である。

その絵に「線」という有名な作品がある。有名かどうかはおいておくとしても、まずキャンパスがあって、そこに青色の、ラピスラズリのように美しい絵の具を適量浸した大筆をゆったりとおろし、わずかに右に引いてから、しずかに下におろし、漢字の「はらい」にならないように筆勢のどかに線を書いただけの絵である。写真やでは気づかないけれど、線の青さは最初はひどく濃く、絵の具にある青色はキラキラしたラメのようなものが含まれているように見えた。それからかすれたような線がしばらく続き、続いてぎゅっとおしこんだかのようにまた濃くなる。濃くなった箇所には筆の毛間から溢れた空気が泡になって飛び出た箇所がきれいにのこっている。そのまま、また薄くなって線がかかれている。まっすぐな線とは言い難い。

この絵はちらりとみるとよくわからないけれど、よくみると筆をどう扱ったらどのような線がでるのかを知り尽くしていないとかけない絵だということがわかる。一本の線の短距離走の間にある極めて濃密な情報は、彼が筆を執り続けた時間の長さに等しいのだろう。

別のギャラリーでは、池田学の誕生-Reborn-という作品が展示されていた。ペンだけでえがかれた震災復興をテーマにした巨木の、乱雑で暴力的な生命そのものが、白抜きの人々のはしゃぎっぷりを横目に天蓋に無上の万花を極めている。らくだも歩いている。かわいい幽霊も遊園地を復旧させようと必死である。下には壊れきった大都市が。右には巨大なクジラすら飲み込まんとする波濤が、それぞれに自らの巨大さと呆気なさを主張するかのように描かれている。

Rebornは見飽きない絵だった。どこを見ても比喩と現実が交互に顔をだしていて、何百枚もの悲劇と歴史が数センチに何年分も凝縮されている。震災のモチーフであることを隠そうともしない悲劇性と、復興の比喩ですらないしたたかな人間を描いてやむことがない。目につく者をあげるとこうだ。飛ぶ鳥を食らう樹木の竜、輪切りにされた飛行機、地殻にあった高熱のまんとるに「ゆ」と書いて温泉に浸る人、ガスタンク、HELPと書かれたバス。旗。ボート。らくだ、樹木に勝手に作られた農園、ちぎれた車にのほほんとのる人、かわいい象さん……。

李禹煥には「線より」というシリーズがあり、数本の線が並んでいるだけの絵がある。現代美術といってシロウトが思いつくような「棒きれで一億円」を体現するような色彩だが、この線を描くために費やされた時間というものを思い馳せると、ああ、なるほど、と思うようなところがある。僕は絵がよくわからない。わかるのはその絵を作るのに費やされた「コスト」だけだ。有形無形の時間と資材がふんだんに費やされた結果の紙片にどのような価値を見出していいのかよくわからないけれど、「線」と「Reborn」はまったく違う見え方の作品ながら同じような時間の長さを感じさせる。

池田学には「興亡史」という和風城郭のバケモノのようなものを描いた、代表作がある。彼の絵にはよく子供を大事そうに持ち上げる人々が描かれるけれど、そこにちょっとした抵抗感を感じるのだった。うまくは言えないが、「正しすぎる」。「興亡史」はそうした正しさを凝縮させたような四面四角な美しい作品で、しかし「Reborn」のほうがずっといい。たぶん「興亡史」のほうが有形無形のコストがかかっているだろう。それでも「Reborn」にはなにか見えない決定的な違いがある。でも「Reborn」よりも「線」のほうがぼくにはずっとよいと思う。それは絵の出来や美しさやメッセージ性や理論的な背景といったものとは全然別だ




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