自分を励ます力を手に入れる事

三〇歳を越えたあたりから「あ、もう泣き言はいえないな」と思う事が増えた。自分が傷つくよりも深く、もっと若い子が傷ついているシーンを見ることが増えたからだ。

同じことは男性ではなく女性もそう思うのだろう。2年前に5人で○00万円を山分けできる仕事があって、ほとんど二ヶ月寝食を惜しんで働いたのに、最後の最後で根こそぎダメになったことがあった。

その時、ぼくと同い年の女性は、うなだれるみんなの背中をばんばん叩きながら「落ち込んでないで、くそったれどもをぶちころす算段しよーよ!」と、励ましだかなんだかわからないセリフを元気よく吐いてみんなを勇気づけ、夜中のトイレで一人声をあげて泣いた。

 僕はそれを聞いていた。彼女からは「これは秘密。ブログにもかかないように」と言われることになった。まあそれでnoteに書いてるんだから俺も「くそったれ」ってことでよいのだろうと思う。

今日『ホビット』をみた。映画版の『ホビット』は『Load of The Ring(指輪物語)』の大ヒットによって生み出されたトールキンによる前日譚を映画化したもので、日本では瀬田貞二の名訳による『ホビットの冒険』がある。(瀬田訳は本当にすばらしいと思う。いまのよこもじだよりのかっこよさは恥じ入るべき)。ところが、この映画版三部作でナンバリングはないため、タイトルで適当に付けられているだけ。名前をみて適当に借りたら2作目からレンタルすることになってしまった。しかたなく2作目を見てから1作目をみた。

『ホビットの冒険』は、ホビットのフロドがドワーフたちと旅をし、勇気を身につけていく物語だ。最後にはど派手な総力戦がある。トールキンにとってドワーフが何の譬喩でホビットが何の隠喩かを知る必要はない。ただ、そこには、勇気がある。『指輪物語』が「行て帰りし物語」即ち成長と王の帰還の話だとするならば『ホビットの冒険』はフロドが、フロド自身の王になる物語だといえる。

三〇を越えて、もう誰も励ましてはくれないという現実にどう対処するかが試されることが増えた、という感慨が増えた。多くの人は「感情をなくす」ことでそれに対処する。人付き合いの密度と容易さは人それぞれ全然違うが、人と付き合ってついた傷を治してくれる人がすぐそばにいるとは限らないのだ。

フロドはつまり、そういう人物だった。昨日と同じ今日がきて、今日と同じ明日がくることを祈る人物だった。それが、ガンダルフ(魔法使い)の訪れによって全部崩れ去る。冒険とはそういうものだ。

ファンタジーが仲間との絆や友情による治癒を主張するのと変わって、現実ではしばしば仲間の絆や友情が傷に繋がることも多くある。ちょっとした言葉の端や、書き方で。

そういうときに自分を自分で励ませるかどうかは大きな違いになる。それは映画のシーンかもしれない。聖書の一節かもしれない。文学かもしれないし音楽かもしれない。あるいは深い思索によるかもしれないし、暴飲暴食によるものかもしれない。

お金がなくなったことではなく、彼女は自分の無力さに泣いたのだろうと思う。それはそうだろう。誰かの背中を叩くぐらいで誰かを励ますことができるわけではない。失ったお金を補填するだけで名誉や誇りが満たされることはない。ただ彼女は自分の傷を自分でなめる力はあった。そういう人にしてあげれることはすくない。ただ、臨戦の態勢を整え、武器を持ち、眠らず、いつでも強打を放てるように多くのひとのそばにいることはできる。そこで武器を放ち、敵を打ちのめすこともできるかもしれない。その信頼、その安心、それを提供することができるなら、それが僕にできる僕への励ましだ。


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