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日本語は日本人のものなのか問題と、金魚と能と遠い国

カズオ・イシグロがノーベル賞を取ったので、『わたしを離さないで』を少しだけ読んで、その書評をネット上で探したりしていた。その時、ちょっと前に宮本輝の、芥川賞選評の後半部、いわゆる「対岸の火事」問題についてのいろいろなブログが目についた。

宮本の評は二つのことを一緒に言っているので非常にわるい。一つ目は「芥川賞の長編化に伴って面白い作品が減った」ということ。二つ目が例の「日本人にとっては対岸の火事」という発言だ。前後が繋がらないので、やっぱり二つのことを言ったのだろう。

「これは、当事者たちには深刻なアイデンティティーと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった」(『文藝春秋』2017年9月号)

「川」三部作という長い上に他人事の極みのような小説を書いた宮本らしからぬ・・・・・・とは思うが、もう河も30年近く前の作品になるので、いろいろ人間変わったのかもしれない。

温又柔氏のことに話は流れない。

ここで思い出したのはiPhoneのキャッチコピーである。ネットで検索しても出てこないのだから、もしかしたら間違っているかもしれないけれど、たしかこんなフレーズだ。

それが変えたのは、その全てです

指示代名詞が二つあって指し示す対象が違うのでわかりにくい。自然な日本語にするなら、「それは全てを変えました」が文としてしっくりくる。でも、なんというか、これはこれで味わいがある。


ことばは不自由なものだと思うのは、「不自然な日本語」として切り捨てられるような表現を「日本人」は自然に使えないということだ。ネイティブにはのろいがかけられているのかもしれない。恥ずかしい意味不明な横文字をカッコイイと崇める一方で、不自然な日本語を「おかしい」といって切り捨てながら、そのおかしさに憧れも感じるというわけだ。

外国人の評論と小説

「文学金魚」というウェブサイトにずっと投稿している人にラモーナ・ツェラヌさんがいる。日本の大学で能の研究を中心に、日本の舞台芸術の専門家としていろいろな仕事をされている方だ。僕も知らない人ではない。

 篤実な研究者であり、まじめなで優しい人だ。そして――こういう表現は嫌がるに違いないが――まるで映画の中からでてきたかのようなすごい美人である。ちょっと昔の、懐かしい感じの風景の、映画。

彼女の日本語は不器用だがすごく魅力的だ。しばらく『青い目でみる日本伝統芸能』という連載をしていた。いわゆる「青山方面」の能楽に関する緻密なレビューも面白かったが、むしろ現代演劇や海老蔵の挑戦に関する現代的で、ようするにパイの打ち止めを食らっている伝統藝ではない作品に対する視線が鮮烈で面白い。

最近ではドイナ・チェルニカという人の小説を翻訳している。「少女と銀狐」こちらの翻訳はあまりにも上手過ぎるのであまり好みではないのだけれど、気がついたら全部読んでしまっていた・・・・・・。すごく面白い。そして可愛い。

ということで、今日はもう終り。

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