暗澹を乗りこえられない

 京都アニメーションが未曾有のテロによって戦後最大級の神的災害に見舞われた。冥福を祈り、悲劇にむせび泣く声に混ざって、我も我もと何かしら言いたい輩がわんさかとでるかと思ったが、さすがに一日もたたない状態で、この、いかんともしがない、というか、超越的な、暴力的な、意味不明な狂乱の嵐の前に二枚舌を炸裂させられる人はまだ居ないようだった。

 ぼくはとても安堵している。まだまだ日本はまともな人で固まっている。おかしくなりかけているが、まだ無事だと思えた。

 その一方で暗澹たる気持ちにもなっている。この暗澹、暗闇、そして粘り気のあるザラついた感覚が、急務の仕事が机にごまんとたまっているにも関わらずブログを書かせている。

 暗澹たる気持ちになっているのは、犯人が残したという小説を「パクリやがって」というニュアンスの、断片的な情報のせいだ。プロの作家か、素人かもわからない、そもそも書いた小説があるのかどうかもわからない。わからないことだらけの中で分かっているのは、京アニの作品の多くが、本質的に「10代の若者が自分たちの今と未来に向かって歩いて行く」話だということだ。

いっそ青春ファンタジーと一言でまとめてしまってもよいだろう。例外も少なくないが、何年にもわたって怒り続けてきたテロリズムの向こう側にあったのが、こうした「青春」の甘く酸っぱく優しく厳しい味だったことは確実である。

41歳だという犯人もまた、おそらくこの青春ファンタジーを書いたのだろう。その青春ファンタジーの趣向・構造・キャラクター・文章・雰囲気・設定のいずれか、あるいはそのすべてが剽窃されたことに怒り狂ったというのだ。もちろんその怒りに正当性がある可能性もゼロではない。ゼロではないが、この日本で消費の対象になりうるカタチの青春はある程度定まっている。その青春ファンタジーが共有する何かの価値観に奉仕し協奏するのではなく、自らの作品を恃み芸術家としての矜持を胸にして剽窃に怒り狂い続け殺人に至った、とすれば「青春ファンタジー」の持っていたこの味はどこにいってしまうのだろうか。

 このようなカタチのない憎悪を納めることこそ、青春ファンタジーに求められていたファンタジーだったのではないか、という気持ちが拭えなかった。その青春ファンタジーが、そして私たちが日常のなぐさみにしていったものが一つずつ力と炎をなくしていった先は、果たして…………大丈夫なのだろうか。

暗澹の手前にあったのが青春ファンタジーの無力なら、その無力を乗りこえるのも青春ファンタジーのしめいだろう。青春ファンタジーの復権をいのる。いのるが、その祈りの手前にわだかまる暗澹たる気持ちについて、いったい何ができるというのだろうか。いったいナゼこの暗澹が渦巻くようになってしまったのだろうか。


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