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「シクミ」作りに疲れた日記。

今日は半日仕事をしたら熱中症で倒れてしまった。

その半日の間に、僕は4回社会の「仕組み」について話を聞かされることになった。場所は青森の片田舎。病院までは車で35分、大学も無ければ産業もないクソ田舎の田舎おこしに精を出す話を延々と聞いた。

それは単なる事例紹介ということだったけれど、そこに暮らす人口の、7割は後期高齢者で1割が超後期高齢者であるとのよし。そこで40代の若手のビジネスマンが奮闘しているので、これをなんとかしてほしいというようなビデオを見る付き添いであった。

そのビジネスマンがいうには、このまちには「シクミ」がないのだという。お金を生産するシクミがなく、人をとどめておくシクミがないのだという。そのシクミを作ることで以下略。

感想からいうと、仕組み以前の問題として、田舎の住民はみんな疲れ切っていた。たぶんそんなことは全員わかっていて、だからこそそのシクミづくりを全力で行ってきたのがこの十年だったのだろう。でもそれに失敗し続けてきたことに対する絶望が画面のはしばしに写り込んでおり、元気いっぱいの40代は、「こんにちわー」といっておばあちゃんの家に上がりこんでいきながら、ワインを作るのでぶどう畑の品種を変えろというようなことをいっていた。

シクミという詞に対応するものは、お金と絶望の両方があると思う。たぶんビジネスマンはお金が問題であるとみていた(それはあっている)。ただ、新しい仕組みが導入されない最大の理由はお金に関する不安ではなく、絶望に対する無気力だったのではないかと思う。このような無気力を的確に言い表す言葉はこの世界にはなかった。

絶望に抗うことは覚悟だとも運命だとも言う。でもたぶん、一番かんたんに言い表すならばこう言える。

希望。

ビジネスマンのいう人がくる「シクミ」は要するに問答無益で人がこざるを得なくするようなあくどさと卑俗さがあって、希望の光には見えなかった。希望は本質的に奇跡だから、そうしたものは希望ではないからだ。希望だと思うものを共有するのは難しい。

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いまメールを打たなくてはならなくて苦しんでいる。メールは明日の19時までに送らなければならない。でも今日中に送ってはならない。それは希望をなくしてしまった人に対する光のようなメールでなくてはならず、絶望を相手にみせない気丈の盾を破るような、力ある励ましを含めた「依頼メール」であった。

こういう時、そういうふうなメールを打つのがうまいなあという人は何人もいる。人を叱って励ますのが上手な編集者、自分の経験を上手に噛み砕く大学教授、覚悟をやわらかく示す自衛隊員。自分はどれでもない、ただのなんの魅力もないクソ雑魚ナメクジでしかない、ということを思わされる

希望がない、と思った。お金になるよ、といって、それが希望にならないことはよく知っていた。札束で殴るのにはタイミングが重要であり、精神に闇を抱えることはそのタイミングを失うことだからだ。

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午前中に田舎に人とお金をよぶシクミづくりの名人ビジネスマンのビデオを見た後、僕はその場で次の仕事に行く予定だった。そとは穏やかに涼しかったのだが、僕は水も飲まずに数十歩歩いただけで気持ち悪くなり、サイゼリヤに入った。

席に着いてドリンクバーと豆を頼んだ。ドリンクバーをとりにいこうとしたところで、隣の席の夫婦とおじさんが「離婚調停」を始めた。

聞くに堪えず、外にでた。ドリンクバーは飲まなかった。豆は2つぶ食べた。それから気持ち悪くなって午後の仕事は無理だからと連絡をいれて帰宅し、泥のように眠った。泥のように眠って、この絶望からは救われることがないと思った。

絶望ごっこはどこにでもはびこっている。それをやぶる希望ごっこもどこにでもはびこっている。でも本当にそれを超えるのは難しい。


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