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何かをDISっていないと死に、DISると燃える。

人生を考えてしまう人にささやく甘い声がある

いきてるのがつらい。

いや、そりゃそうだろう。みんな辛いだろう。辛いけど、がんばって生きていこうと思っている。普段、そこまでしっかり「がんばるぽん!」とかって思っていなくても、がんばろうという気持ちはそれなりにみんな持っているはずだ。

でもそういう気持がポッキリ折れることもある。

ダークソウルシリーズでめちゃくちゃ強いボスをまったく倒せなかった時、ボーナスが思ってたより少なかったとき、愛する人が死んだとき、等。

そういう時に人の生き方、人の生とはなんだろうと考えて込んでしまうことがあるかもしれない。

芸術にせよ文化――あるいは人文と呼ばれるそれらは、すべてそうした生とひっし向き合ってきたんだ。だからその答えはある。

……と、その界隈の人は困ったときにこういう適当なことをいってきた。人はみな人間だし(今のところね)、人間が人間について考えることには大きな価値と意味があり、人間が人間の事を考えるとき、それは書物や絵画や、とにかくなにかの表現を伴う。

「人生に、文学を。」プロジェクトWebサイト

そこで文学ですよ!

と彼らは突然言い出し、突然叫び、突然誰かをDISって去って行く。比較的見馴れたその光景も、いわばカルチャー辻斬りというか、とにかく無礼でシツケがなっておらず、みんな「あー、またカルチャープロレスさんかー」って思っていたのだが、ついにそのツケがまわってきた。

「人生に、文学を。」読書推進キャンペーンでなぜかアニメをdisって炎上 #kai_you http://kai-you.net/article/31238

……流れも文学がそこそこ好きで評論とかも読んじゃう人だったら「またか」の一言で終了。いつもどおり、「ブンガクさんでがんばってね☆」と意味の無い揶揄を放たれ、結局だれも本なんか読まずに終わるといういつも通りの平常運転の未来というか、現在が予測できるこの流れ。ただ、今回の問題はなかなかオモシロい。

このクソダサきわまりないキャッチコピーの中で問題となったのはたったひとこと。

(アニメか?)

だけである。アニメか? アニメでいいじゃん。何が問題なの? 

問題なんて一つもない。アニメで人生を学びました、でいい。アニメとブンガクを計りにかけてどっちが人生を描いているのかはそれなりに興味深い問題だが、最終的にどっちかがどっちかを殴って終わると思うし、明日の夕食代払えるかどうか心配してる人にそんな問いかけしてもしょうが無いだろう。だから、今日はべつになにもいいたくない。

僕がいいたいのは、実はこの手の「煽り」はブンガク者界隈ではよくやるプロレス技の一つなのだが、実社会ではこのプロレスはあらゆる意味で通用しなかったよね、というそれだけの話なのだ。

かくいう僕もブンガク界隈の末席の末席のキングオブ末席の人間なのでよくわかるけれど、このブンガク界隈の売れてるカルチャーに対するひがみと嫉妬は半端なものではない。かくいう僕も売れているカルチャーにたいしてひがみと嫉妬と悲しみを背負いまくっているのである。

このひがみの裏側には、「アニメ(に代表されている売れていてお金になって作るとみんなキャーキャー言ってくれて出版社がゴイスーなパーティ開いてくれるなんかわかんないけどすごいの全般)」さえなかったら、僕らはもっと輝いていたはずなのに、という思いがあるんだろうとずっと前から邪推している。ゲームが無ければプロ野球が、CDプレイヤーがなければクラシック音楽が、プリンターが無ければ写植工が生き残れたかもしれなかったように、アニメがなければ文学さんは生き残れたかもしれない。

 だからこんどはアニメ好きの諸氏が文学に「闘魂注入」するべきだと思う。もう過去の栄光はない。アニキは死んだ、もういない!!

 けれども僕らの胸に生き続けているのかどうか、それは結局どれだけいい作品を生み出せるか、作家を育てられるか、文化の継承をうまくできるか、魅力的なカルチャーであり続けながら、深い伝統を守っていけるか、等々ができるかどうかにかかっているはずなのだ。

 なのだけれど、そんなのいいからとりあえず廻りをDISってれば胸がスカッとするでしょって考えのあまっちょろいキャッチコピーなんてどうでもいいだよ! うらあ!

というところでこの話題の旬も過ぎてしまったので寝ます。おやすみー。

昔のことや未来のことを考えるための、書籍代や、旅行費や、おいしい料理を食べたり、いろんなネタを探すための足代になります。何もお返しできませんが、ドッカンと支援くだされば幸いです。