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東京で勝つ幻想と地方最高幻想の間にいるよって話。

地域振興!

 というと何かが芽生えるのかいいことがあるのか、いろいろ思う所があるのか、俄然やる気が出る人が多い。多い、ということを揶揄するつもりはない。でも、その言葉に少し疲れを感じつつあるし、実はその絡みでちょっと……どころではなく痛い目にあったりしたので、いまは少し距離を取りたい気持ちがある。

でも要するにこう。「地域」という言葉に入るアクセント・力点が僕には重すぎるのだ。「地域」という言葉は東京や京都といった中心にたいして「地方」である、といった認識をもたないように、それぞれの場所が平面的に対等であるようにという認識が含まれていて、その言葉使いは重要だと思う。思う、けれども、ではそうした気合いを目の前で見せられると「ウッ」となってしまうことも少なくない。

たしかに「地方」は差別的なニュアンスをもってしまっている、とおもう。「地域」がそれに比べて非差別的であるかどうかは正直よく分からないけれど、「ああ、地方出身者ね」みたいなことを言う六本木のにーちゃんがいう「地方」に比べれば、希望や光量が大きいフレーズだろう。

でも、そうした「地域」という言葉を聞くたびに、そこには何かいいえない限界を感じてしまう。その「限界感」が何に由来するのかよくわからない。しかし、どれほどの産業があり、人がいても東京ほどでは無い、というあっけらかんとした事実に地域は勝てない。そこにある東京という場所の、響きの圧倒的な圧倒の前にどのような特色があろうとも地域は勝てない。

勝てない、というのは僕の小さな了見の話だ。でも、この了見はこのサイズでも圧倒的に真実をついている。実際に住んでみたら、とか、言ってみたら、とか、そういうのを全て通り越している。

東京がでかすぎるのだ。

僕は今日そのことをふと思うことがあった。きっかけは中央線の中に転がり込んできた父親と娘の二人組だった。家賃が高いから引っ越そうかという父親(娘にそんな話をするぐらい追い込まれていたのかもしれない)に、娘が「でも東京にいたら一発あると思う」と言ったのだった。

この「一発」にハッとしない人はいない。いないはずだ。一発ないよ、というにせよ、結局一発ないにせよ、そこの「一発」は東京以外の地では想像することができないような發撃だ。

娘は東京に期待しすぎだ。

でも僕はたぶんその娘と同じぐらい東京に期待しているのだ。ここから50キロ離れるごとに人が半分になり、人が何かを探して歩くことが減る。しかし東京になら、何もなくても何かがあるかもしれないのだ。何も無くても。

東京で成功することに終わりはない。成功の形に終わりがないように、この終わりのなさを手に入れていない地域に全てをかけることは、僕にはできなかった。

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