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女性に対して「悪魔!」って言ってやりたいときの理不尽さは三島由紀夫に学んだ……。

フロランス・ドゥレという、女優から大学教授になった変わり種の小説家(なんなんだ)の『リッチ&ライト』という小説の序盤に、ドクトルという男性がドロテアという非常に男性好きな、遊び人の既婚女性にたいして恋焦がれておかしくなってしまう回想がある。

おかしくなった結果、ドクトルはドロテアの夫となり、そののちどこぞの伊達男とドロテアがセックスするところをドクトルが見守るシーンがある。

ぼくはあけすけになった。ドロテアに向かって「服を脱げ」、彼に向かって「この女は牝犬だよ」と言葉を投げつけた。

なんど読んでもどういう文脈でこうなるのかイマイチ理解できないのだけれど(お酒を飲んで読んだせいもあるだろう)、こうした一連の動作にドロテアが傷ついたことは次の文章からもうかがえる。

今度は夫を見るというのではなく、ボールを見失って、自分に言葉を投げつける実の父親を見るような顔だった。

このシーンをみてから、ぼくはずっと「支配欲」とゆう言葉に取り憑かれている。女性は優しくて強引な男が好きだったりするのだろうかもしれないけれど、異性を支配したいという欲望は良いものでも悪いものでも普遍的なものだ。ぼくにもあった。

むかし「ファミ通TV」というゲームを紹介する番組で、グラビアアイドルをスト4でボコボコにするという企画があった。勝てたらDVDの告知ができるというどこにでもよくある企画なのだけれど、そのスト4でボコボコにしながらアイドルに投げかける言葉は、それまでのお喋りをひっくり返すほどのヒドさで、興奮したものだ。


 人間は欲望であれ欲求であれ望んだものは手に入らないことになっている。それは欲求というものが本質的に大きく歪んでいるからだし、例えば空腹時にご飯を食べても美味しく感じられないとか、食べたあとで後悔するといった身近なことから、自分に対して寄せられる好意に対する反感や憎悪に対する隷属心といった複雑なことまでいろいろある。

 まっすぐに自分に対して正直に生きている人が、奔放で放埒、つまりだらしない人間に見えることがよくある。そうした奔放さに目をつければ、そうした自由な生き方を制限する――もっと優しい言い方をすれば、その奔放さを支配する願望もムクムクと湧き上がってくるものだ。

 その逆もある。自らに枷をかして、自分自身の実直さと周囲や感情との愛憎をコントロールしながら、誰も不幸せにならないように気持ちを殺して生きている人を、その心の底で本当は願っているに違いないふしだらな欲望を白日のもとにさらして、それを指弾してやりたいという欲望も人は持ちがちだ。

 どちらも成功しない。ただ相手と自分を傷つけて終わるだけだ。

 後者の事例について三島由紀夫『豊饒の海』の最初「春の雪」の手紙がその典型だと思う。豊饒の海にでてくる華族の清顕が、聡子という預かり先の女性に恋をして、この聡子に「悪魔のような女性」だという手紙を送りつけるシーンがある。聡子が結局清顕をどう考えているのかよくわからないのだけれど、貞淑で理想の日本女性を体現するような優しい女性を「悪魔」だと罵ることに女性は驚き、清顕に対して憎悪をもち、ついでに「春の雪」でもう読むのをやめるらしい。


 ただ、ぼくにはこの清顕の気持ちはわかる気がする。清顕が聡子を「悪魔」というとき、そこには貞淑で理想的な恋人を詰り潰したいという欲望の歪みを抑えられない、という欲望の二重構造がある。欲望は重層決定されている、といってもいい。言い換えれば、支配欲に支配されている。

 でも人はみなそうだろう。好きで結婚しても離婚したくなったり、片思いしていてもひどいやつだと思いたかったり、絶望のはてに笑いだしたくなることだってある。男性が女性に対するこうした二重三重の歪んだ欲求が満たされることはない。無いけれども、無い、と認めてしまった時に、清顕は自分が安定した劣等になることを認めることになってしまうのだろう。

やさしい気遣いの言葉の裏側には、どれほどの自制心や理性の鎧でも覆い隠すことができない支配への欲求が埋め込まれている。怒鳴りつけて縛りつけて、いきなり犯したい、ぐらいのめちゃくちゃな欲望が潜んでいる。その逆に、突然気が狂った相手から罵詈雑言を浴びせかけられたいという気持ちも残る。そういうものだ。それらがぐちゃぐちゃになったままおかしくなった人は、ただこういうのだ。

「あなたは悪魔です! わたしのこころをもてあそんでいる!」


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