僕はハンターハンターについて何もしらなかった。

ハンターハンターを10巻まで読んだ。

読まざるをえなかった。

僕は家を追い出され、故郷を無くしたヴァカボンドのようにあちこちを放浪していた。足の裏の血豆が破裂して、肉の間に染料のような血が広がったことを知っていた。靴はボロボロだった。買い換える体力はなかった。痛みは規則正しく歩くたびに訪れた。

喉の痛みはそれとは別の、ストレスによるものだと思った。フラッシュバックが多く、耳鳴りや幻聴も、ちゃんとコントロールしなければ聞こえてきそうだった。悔恨のあまりに線路に転げ落ちても自分はちゃんと納得するだろうと毎日思うけれど、結局飛び降りる人と飛び降りない人の間に何か決定的な違いがあるわけではない。

喉が変だ。使いかけのカッターナイフを飲み込んだような痛みはあったけれど、医者にいってもこういわれることは知っていた。「どこも問題はありませんよ。」そういってなぜか胃薬を出されるのだ。

インターネットでは「つらい」ということは禁じられている。

ネットビジネスの本にはどこでもそう書いてある。インターネットにおける共感とは、見ていても毒にならないことであり、利用にあたいする人脈であり、崇拝に値する信仰であり、実務にあたいするその場限りの嘘で塗り潰される。人間であることよりも綺麗さのバケモノであることが求められる。人間であることよりも炎上芸人のほうが豊かな暮らしを保証される。

ネット人格とはそうやって人間性を捨てたドブそのものである。。「つらい」のひとことが許されるのは、ネットカフェの薄暗い個室で、ハンターハンターをよんでいるときだけだ。

ハンターハンターは、ひたすら面白かった。いまの主人公では勝てないだろう相手を出し抜くためのテクニックを駆使することは、少年漫画における義務だった。

ハンターではそれはヒソカであり、幻影旅団だった。幻影旅団のメンバーの一人を仕留めるところまでが、ハンターの10巻なのだけれど、その一人を仕留めるまでに「念」があり、属性があり、それぞれの属性における特性の計算があり、それらの計算が無数に重なり合った幸運の上にかろうじて、しかし確実な勝利を修めるシーンで終わる。

クラピカとウヴォーキンの戦いだ。クラピカは特殊な生まれと特殊な訓練を積んだ強者としてウヴォーキンを倒した。神話的な力ではなく、計算尽くの数学的な美しさで勝利する。

ハンターハンターの初期(幻影旅団篇までを初期といってもよいだろう)には、武内直子氏と結婚したことによる幸福があふれでていた。何巻だったか、二人で結婚したときのイラストが僅か1枚に「結婚」「プロポーズ」「ハネムーン」「ぐったり」とあって、擬人化された二人の漫画家が隣同士の机でマンガを描きあうシーンが描かれていた。

僕には最後まで得られなかったものだが、幸福とはこういうことを云うのだろうと思わせる背中が描かれていた。

ハンターハンターには数度「ワクワク」というフレーズがでてくる。おそらく当初、「HUNTER」は「COLLECTOR」とさして変わらない意味で使われていたそれが、話が進むにしたがって名前以上の意味を持ち始めていく。ゴンはヒソカと戦いたがるが、それはその場限りで使われるあいまいな理由よりも、第一巻ですでに指示されている「死」への興奮、即ち狂気と快楽に満ち満ちている。ゴンをヒューマニティあふれる少年として描こうとすればするほど、彼は狂っているようにしか見えなくなる。好奇心と可能性の怪物。すなわち子供。

ハンターハンター続き読もうかな。という気持ちにも正直いうと慣れていない。まず話が難しい。念概念がでてきてから、それを複雑に応用する技が多数でてくる。まだついていけていない。

でもそのうちちゃんと読みたいと思う。

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