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読書記録#5 『ムスコ物語』

自分の読むスピードに読書記録が追いついていないと焦りつつも、面白くてあっという間に読み終えてしまった。ヤマザキマリさんの『ムスコ物語』(2024/01/17読了 非ビジネス基礎)

雑誌レタスクラブに連載されている「女のモヤモヤにこの一冊」が好きなのだが、悩める母親向けの本として、以下のように紹介されていた。

「子育てのモノサシを強化する。」
「子育てのトラブル発生時に迷いがちな方、参考になりますよ。」

ついつい正解のない答えを探してしまう子育て。相手が自分の子供であろうと、ひとりの人として尊重し接することは、変わらないことであるということに、立ち返らせてくれた一冊だ。

今の私に響いた言葉のメモ 3つに厳選

著者の息子デルスが、いじめられたことを知ったときの会話。

 私とデルスのやりとりを聞いていた夫がやってきて、何を言うかと思えば「人間の子供なんてみんなそんなもんだ」と一言。「気にしていたらキリがないよ。少し辛抱して、別のことを考えたりしながら、自分が関心の対象にならなくなるのを待つ以外にないよ」
 いじめられた経験がなかったら言えない言葉だと思った。

ヤマザキマリさんが『ムスコ物語』のなかで

純粋にすごいと思った。この夫は、デルスの実の父親ではない。その前提を踏まえると、あらためてヤマザキマリさんの他者を受け入れる力に感動する。子供のことでムキにならない親は多いだろう。特に子供が理不尽な目にあっていることを知ったときほど、親の憤りは言い表せないものがある。そんな局面でも、冷静に夫の言葉を受け取り、瞬時に経験者でないと語れない言葉だと気づける。親としてだけではなく、人として、自分の視野の狭さを突きつけられる。

少なくとも私はデルスを産んだ時点から、この子の存在は私の生きる理由ではないと自覚し続けてきた。ただでさえ世知辛い世の中の、しかも貧乏に打ちひしがれていた自分のような人間のもとに、うっかり生まれてしまった子供に対して、"親の生きがい"などという愛情の皮を被った重荷を課す気持ちに全くなれなかった。そのうち自分にとって生きやすい道を見つけたら、私など気にせずどんどんそっちのほうに行ってほしいと、ずっとそう思いながら育ててきたし、デルスも私のそんな子育ての姿勢をごく普通に受け入れてきたように感じている。

ヤマザキマリさんが『ムスコ物語』のなかで

私は自分でも母親になれたことに、あまりにも感激し、ちゃんと育てなければ!と、誰からのプレッシャーなのかわからないものに応えるように、ピリピリしてしまうことがある。「この子の存在が私の生きる理由ではない」と、思いきれる強さが、なんてかっこいいのだろう。思わず、かあちゃん…とついていきたくなる。私も自分の子に対し、このようにしなやかで強い母親でありたい。誰かにもたれるのではなく、すっと立っていたい。

 自分が入念に思い描いた子育てという筋書きを何がなんでも達成したがる母親は、予期せぬ人生の顚末の可能性を推しはかろうとはしない。私が思うに、子育てに欠かしてならないのは、たとえ子供に対してどんな理想が芽生えようとも、あらゆることが未来では起こり得るという覚悟を備え持つことと、母親という立場からいったん離れて、自分の力で自らを満たす術を持たねばならないことではないだろうか。親の決めた方向に進まなくてもよいことになった子供は、それまで気がつくこともなかった思いがけない自分の才能を自由に開花させることもできるようになるし、何より親を満足させるために生きなければならないという大きな負荷からの解放は、そのまま人生の謳歌へと繋がっていくだろう。

ヤマザキマリさんが『ムスコ物語』のなかで

母親である前に、ひとりの人間として、自分の軸を持ちたい。子は親の背中を見て育つというが、ヤマザキマリさんのような軸がしっかりとした、まっすぐな背中は、きっと多くのことを物語っているのだろう。

2023年に読んだ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の著者である、ブレイディ みかこさんに対しても同様の印象を持った。マイノリティな視点から見る世界を冷静に受け止め、強く生きる姿を子供に見せる。その背中はどこまでも広く、温かい。私は自分がマジョリティに属することで必死で、見たいものだけを見ようとしていた。これからはもっと本を読むことで、他者の視点を増やし、自ら狭めた世界を拡げていきたい。

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