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「期待に応えられてしまうこと」の危うさ

先週の火曜日の朝、会社に行こうと思っても行けなくなってしまった。

こんなことは初めてで、自分でも本当にびっくりしたのだけれど、会社へ行く準備をしようと思うとぽろぽろと涙があふれてきて、止まらなくなってしまったのだ。

その日は16時から大事な取材があったので、それだけは行かなければと思っていた。個人的な都合でチームや取材相手の方に迷惑をかけることはできないし、マンガみたいに自分の頬をパンっと叩いたりなんかして、なんとか自分を奮い立たせようとした。……けれど、どうにも涙を止めることができなかった。異常を感じ取った同居人が「今日は絶対に休んだ方がいい」と言ってくれて、休むことにした。

そこから数日間、会社に行けなかった。繰り返しになるけれど、本当に自分でもびっくりした。自分が、自分じゃなくなったような感じがして。今はだいぶ落ち着いてきたけれど、まだ回復はしていない。多方面の方々にご迷惑をおかけしてしまい、本当にすみません。

「なんでも卒なくこなしてくれるから有難い」「いつも期待以上のアウトプットをしてくれる」「あかしさんは順調に成長しているから問題ありません」

思い返してみると、小学生の頃から、そう言われ続けてきた人生だった。

テストでいい点数を取ることも、やりたいことを見つけてそれに全力で取り組むことも、そこで成果を出すことも──俗にいう「いい子」「扱いやすい子」「バランスがいい子」でいることは、私にとって全然難しくなかった。求められることは快感だったし、むしろ、そういう自分のことが好きだったかもしれない。

でも、一番近くにいる同居人は、そんな私の無茶を見抜いていたようで、「ゆかは、いつも潰れそうなギリギリのラインで、どうにか乗り切って生きているよね」と言っていた。でも私は、その言葉にさえ、「いつもギリギリで乗り切れる私、すごいでしょう」なんて思ってしまっていた。

そう。今までは、どうにか乗り切れてしまっていたのだ。アクセル全開で、多少精神的・体力的に無理をしていても、なんとか私は乗り切ることができる。今までだって大丈夫だったんだから。自分が無理をすることよりも、期待に応えられずがっかりされることの方が辛い。だから頑張らなくては、自分はまだまだやれる──。

そういった自分に対しての「驕り」が引き起こしたのが、先週の事態だった。

こういった状態の人を、「ブレーキのきかないスーパーカー」と言うんだよ、と、先日とある人に教えてもらった。

「他者からの期待」がガソリンとなり、それに応え、また期待を注がれ、応える──そうやってどんどん突っ走ってしまう。突っ走って、ちょっとしんどいなと思っても、自分でブレーキをかける術を知らないから止まることができない。そしてついにはフェンスに突っ込んで、潰れてしまう。

まさに私のことだった。よくよく考えてみると、なんて怖い状態なんだろう、と思った。このままじゃいけない、とも。突っ込んだフェンスが比較的柔らかいもので本当によかった。

きっと今の私に必要なのは、自分自身の車にブレーキを設置して、それを踏む勇気を持つこと、そして、自分を動かすエンジンを「他者からの期待」ではなくすることなのだ、と思う。「期待」の呪縛から解かれなきゃいけない。そうやって生きてきた私には、ものすごく難しいことなのだけれど。

「期待に応えられなかったとき、それでもあかしさんのことを大事にして側にいてくれる人を大切にしたらいいよ」「期待に応えられなくて離れていく人は、本当に大切にすべき人じゃないよ」とその人は言ってくれた。

今が、変わるときなのかもしれない。すぐには無理でも、ちょっとずつ、生き方を見直して、変わっていきたいな、と思う水曜日の夜なのでした。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。