見出し画像

今、目の前にいる人の背景を思う

誰かと会って話しているとき、ふいに会話が止まったり、急にあらぬ方向へ内容が飛んでいったりと、「不自然」な現象が起きることがたまにある。それは、自分に起きることもあれば、相手側に起きることもある。

私は、そういう瞬間のことが好きだ。「誰かが何かを考えている時間や、その結果生まれる会話が好き」と言うよりも、「相手が、自分の知らない世界を生きているということを実感させてくれるから好き」と言った方が、この感覚を伝える言葉としては、正しいように思う。

「あ、今、何かしら頭の中で過去の出来事とリンクしたんだろうな」とか、「今は触れたくない話題だったのかもしれないな」とか、相手が生きている私の知り得ない世界が、会話の節々にパッと現れる──そういう瞬間が好きなのだ。

一方で、会話をするときに、「今、目の前にいる相手」だけを見て、相手のことを判断してこようとする人が苦手だ。

もちろん、目の前に対峙している相手を見つめることはとても大事だと思うけれど、その相手を「即時的」に判断していることを感じた瞬間に、私はウッと心が後ろずさり、パタっと扉を閉じてしまう。つい最近も、同じような感覚を覚えることがあった。

これはなんでなんだろう──。そう考えたときに、私はとある取材のことを思い出した。

もう2年ほど前になるけれど、武田砂鉄さんと平田オリザさんに、「コミュニケーション」をテーマに取材をする機会があった。そのときに聞いた下記のお二人の会話が、私の記憶に印象的に残っている。

武田:自分はコミュニケーションって、重層性だなって思うんです。こうして話しているときであっても、自分は100%平田さんのことを考えているわけではない。

目の前にいる編集者の表情を気にしているし、あるいは、「この対談が終わった後、昼飯どこで食べようかな」とか「夕方からの打ち合わせ、面倒くさいなぁ」ってことだって、どこかで頭に置きながら、今こうして対話をしている。

たとえば、今日、駅からこの対談場所に向かっている時に、カメラマンさんと別のことを話していたら、今ここで別の話をしていたかもしれないですし。ここで平田さんとどんなやりとりが行われるかって、平田さんと自分だけで決まることではないはずなんです。(中略)

コミュニケーションは能力ではなく、時間の流れや環境など、複数の要素があって成り立っているものです。そう考えないと、コミュニケーションがなにかなんて見えてこない気がします。

平田:その通りだと思います。人間は主体的にしゃべる存在であると同時に、環境によって、他者によってしゃべらされている存在であるということを、僕たちは演劇の中で提唱してきました。

そう、武田さんがおっしゃる通り、コミュニケーションは、重層的であり、会話する人それぞれが生きる時間の流れや環境など、複数の要素があってはじめて成り立っているものなのだ。平田さんがおっしゃる通り、人間は主体的にしゃべる存在であると同時に、環境によって、他者によってしゃべらされている存在だ。

だからこそ、第一印象があまりよくなかったとしても、その人や自分の置かれている環境や時間の流れが変わりさえすれば、その人とのコミュニケーション、その人に対する印象だってまったく別のように感じるはず。出会う場所や時間が違えば、その人のまた別の一面が見えてくるはず。

コミュニケーションの前提に、そういった感覚がある人かどうかというのは、私が人間関係を築く上で、無意識的に大切にしている部分なのかもしれないな、とふと思った。

誰かと話すときは、相手が今日ここに来るまでに生きてきたであろうの人生のことを少しだけ思う。相手がこれまで触れてきた世界の断片が重なって、自分と向き合っている「相手」が生まれていることを少しだけ思う。

すべてを考えるのは無理だし、その必要はないけれど(それをしてしまってはストーカーになる)、ほんの少しだけ、目の前の人の背景を想像する余白を残しておく。それだけで、コミュニケーションは豊かになるのではないかな、と思う日曜日の夜なのでした。夏バテが止まりません。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。