「出会いの総量が増える人」と会うことが好き

「生きている中でどんな瞬間が一番好き?」と聞かれたときに、私はよく「人と会う」瞬間だ、と答える。数年ぶりに誰かと再会することも、同じ人と定期的に会うことも、新しい人と出会うことも、どれも差をつけられないくらい大好きだ。

もちろん、一人の時間はそれと同じくらい大切にしたい。一人になる時間がないと、自分の感情や行動をバランスよく保つことができない、と思う。そのことを踏まえた上でも、やっぱり人と会って話しているときの楽しさは、何にも変えがたいものがある。


でも、いくら「人と会うことが好き」だからと言って、誰でも会って楽しいわけじゃあない(そうだったらどんなに人生が楽しくて豊かになるんだろう、とは思うのだけれど)。どうしたって人間なので、人との相性というものは、生きる中で日々感じてしまう。

じゃあ、私はどんな人と会うことが好きなんだろう?

ふとそんなことを考えていたときに、ああ、私は「出会いの総量が増える人」と会うことが好きなのだなあ、ということを思った。


ここでいう「出会い」とは、決して「人」に限ったことではない。

それはたとえば今まで気づかなかった自分の感情に気づかしてくれるような「感情との出会い」だとか、今まで知らなかった面白い映画や漫画などを教えてくれるような「コンテンツとの出会い」だとか、気づけばその人の周りの人まで仲良くなっていた、といったような「人との出会い」だとか、さまざまな出会いの種類がある。

その人と出会うことでしか出会え得なかった世界や感情、人、コンテンツ。そして、その人が私と出会うことでしか出会え得なかった世界や感情、人、コンテンツ。そういった「出会いの総量」が増えるとき、そしてその出会いが双方にとって心地いいものであったときに、おおげさではなく、私は「生きていてよかったなあ」と思う。


先日、『断片的なものの社会学』で知られる岸政彦さんと作家の川上未映子さんのトークイベントへ足を運んだ。

そのとき、岸さんがしきりと「人間が生きている意味なんて、"たまたま出会ったものを大切にしたいから"くらいの粒度でいいんですよ」と言っていた。

「生きている意味」なんてものを人は考えすぎてしまう生きものだけれど、そして私自身考えてみたりもするけれど、私は「素敵な出会いの総量を増やす」こと以上にたのしい有意義だと思える瞬間はないのだから──究極的には、私の生きている意味なんてものは案外そこにあると言ってしまってもいいのかもしれないなあ、なんてことをふと思う。


そういう意味で、最近は、「出会いの総量が増える人」との時間がとても多いので幸せです。そういう時間を、なるべく、なるべく、多くして生きていきたい。この自分の中にある、滾る好奇心を飼い慣らして生きていきたいのだ、と思う日曜日の夜です。お盆の東京は人が少ないんだね。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。