言葉や感情のインストール
飲んでいたら、友達が「自分は感情が乏しいから、感情を意識的にインストールしている」と言い出した。なんでそんな話になったんだっけ。ああそうだ、たしかその友達がアニメ好きという話をしていて、「なぜアニメを見るのか」という話になって出てきた言葉だったと思う。
その言葉を聞いたとき、分かるなあ、と思った。
私が本を読み始めるようになったきっかけも、まだ見ぬ世界を自分にインストールしたかったからだった。それまで門限など家のルールが厳しく行動や経験の幅が狭かった自分に、世の中のまだ見ぬ出来事を、まだ感じぬ感情を、インストールしたかったからだった。
世の中にはこんな感情を抱いている人がいるんだ。世の中にはこんな恋愛をしている人がいるんだ。世の中にはこんな不条理と向き合わなければいけないことがあるんだ。
まるでスマートフォンにおもしろそうなアプリをインストールするかのように、感情や知識を、私は自分の体にインストールしていた。
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そうやってインストールしていったものたちの中には、やっぱり、自分の中にずっと残り続けるものと、すぐにアンインストールしてしまうものがあった。
そしてそれは「インストール or アンインストール」という単純な、対極的構造ではない。「インストールしたまま残しているけれどまだ使っていないもの」もあれば「使いまくっているお気に入りのもの」もあるし、「アップデートし続けるもの」もあれば「今のバージョンが気に入っているから絶対にアップデートしない(するのが怖い)もの」も、さらには「アンインストールしたけれどある日思い出して再度インストールしたもの」だってある。
インストールしているものの中にも、アンインストールしたものの中にも、さらに細分化された、さまざまな種類の感情や言葉たちがある。さらに言えば、自ら作り出したものもあるし、自分の体に合わなくってバグを起こしてしまうものだってある。そう思えば人間って、ある種のハードウェアみたい。
ただ、人間というハードウェアがスマートフォンやパソコンと違うところは、一度インストールした本体は、インストールしなかったときの本体とはほんの少しだけ変わってしまう、ということ。たとえアンインストールしたとしても、インストールしたことがない頃の自分に戻ることはできない。インストールされた感情や経験は、完全にアンインストールすることなんてできない。知ってしまったら知らなかったころの自分に戻ることは不可能で、だからこそ人間は複雑で、おもしろい生き物なんだろうな、と思う。
私という人間は、「これまで何をインストールして、何をアンインストールしてきたか」、「インストールしたものをいかに使っているか」、そして「自ら何を作り出すのか」の3つによって形作られている。そのどれもを、怠るような人間にはなりたくないなあ、と思う、金曜日の夜なのでした。
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。