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師匠 篠山紀信さんが亡くなった

篠山さんが亡くなった。 2024年1月4日

先日、ブルータスに沢渡さんと写っている姿を見て心配していた。激やせしていたからだ。
篠山さんと僕とは11才違い。僕がアシスタントを始めたときは、30歳ぐらい、すでに油にのりのり、その後のフルパワーに驚愕するばかりだった。
篠山さんの1960年代後半が初期の天才時代で、それまでの写真家のイメージをぶち壊した。常に反アートの旗手であった。
今やすっかり写真はアートだけが評価されているけど、篠山さんは写真をもっとダイナミックメディアだと信仰していた。….なんて僕が篠山紀信論を語ってもはじまらない。

1972年1月から1975年8月までの3年8ケ月アシスタントだった。日本ナンバーワンの写真家のアシスタントはそれまで経験したことのない、凝縮した時間だった。そのため若い僕は何かを解体してしまった。フリーになった瞬間何をやりたいのかわからなくなっていた。取り戻すのに数年かかった。アシスタント中のスケジュールは激しかった。仕事は楽しかった。たくさんの失敗もした。一番の問題はフリーになった時、大人とはこういう人のことだと思い込んでしまったことだ。なぜなら篠山さんの周りにはそういう大人ばかりだったからだ。
アサヒカメラ 1972年9月号

 写真は、1972年、僕がアシスタントになった年の7月、アサヒカメラで公募した読者2人と編集者のかわりにアシスタントの僕が、一緒に旅することになった。

その年、篠山さんはアサカメの表紙を一年間担当した。篠山さんも若い。
僕はヤシカエレクトロ35だけを持っていた。楽しい旅だった。アシスタントではなく、応募した二人と同じ待遇の旅だった。

篠山さんは自分でカメラを持ち、僕をアシスタント扱いしなかった。商船大の浅田君。彼は後に写真家となりサイゴン陥落を撮った。一ノ瀬泰造氏の本の出版に尽力した。ドイテクの事務員だった笠原さんは、僕の写真集にもでてくる。

篠山さんは、一緒に旅をして、ひと世代違う僕らの生態に興味しんしんだった。ビートルズや、フォーク、学生運動、恋愛など。篠山さんの世代と少し考え方が違っていた。だから、たくさん篠山さんとは話をした。しゃべりすぎたかもしれない。
フリーになって、篠山さんと会うことはほとんどなくなった。パーティなどで会えば挨拶するぐらいだ。
篠山さんがまだまだ若かったからかもしれない、師匠ぶることを拒否していた。弟子だとしても、常に対等のライバルとして扱ってくれた。

師匠を囲んで何かをしたがるタイプじゃないんだ。
常に今先をあるく偉大な写真家として僕は感じていた。
そんなふうにはなかなか生きられない。
本当に尊敬する写真家だった。
ありがとうございます。
ご冥福を祈ります。
写真は東北の旅の時のスナップ。あんまりこんな風な写真はないから。

帰りは飛行機で帰った。3泊4日の旅だったかな。

30代前半の篠山さんはこの爆発した頭と同じように、重爆撃機のような写真家だった。

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