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01 ぼくのアサヒカメラ ”どさくさ休刊”

1926年(大正15年)4月に創刊されたアサヒカメラは、戦時休刊があったものの94年間続いた歴史ある、その間ずっとNo.1のカメラ雑誌として君臨していた。それが新型コロナによる広告費激減により、たちゆかなくなり紙媒体の定期刊行物としては廃刊にあいなったというわけだ。
それはあまりに突然で、最終号をみればわかるとおり、平時の号に茶を濁した程度の「さよなら号」となっていて編集者の怒りといいうか、そんな気力もなかったのか、粛々と終焉した痕跡さえ見当たらない。
この決断は、朝日新聞出版上層部の決定であり、それはそれで失われた20年間の後半からの、デジタルカメラバブルによる広告料によって、カメラ雑誌は延命していたが、紙メディの崩壊は目にみえていて、デジタルカメラが完成の域にきた現在、カメラメーカーさえ、日本のモノづくりの終わりに近づいた影響だろう。あげくの追い打ち新型コロナ事件だった。
経営者から見たら、この千載一遇のタイミングに、それはだれが見てもどさくさで、カメラ雑誌の歴史や、カメラメーカーとの共益と確執この数年いろいろあったのだと思うが、突然決断された。
もともと新聞社は、そのプライドか、広告部が弱い。頭を下げない殿様商売的な時代もあり、巨大なカメラメーカーの独占広告媒体として特にNo.1アサヒカメラは強力だったのだろう。思い出してみよう。かつてあった写真週刊誌、アサヒグラフの広告って、町の広告社があつめたような安い広告ばかりで不思議だった。
朝日新聞出版として新聞から独立したとき、そのへんのことが改善されるのかと思ったが経費が削減されたぐらいで何も変わらなかった。
1985年4月の、伝説の「カメラ毎日」休刊は、おなじように唐突だったが、その当時のカメラ毎日は内容が先鋭化して、すで売れ行きもガタ落ちになりHallow Goodbyeと突然終わったがショックを感じても、しょうがないかなと思えるものがあった。毎日新聞社本体が弱体化したこともあり、売れ行きも悪く必然といえば必然だったからだ。

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