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01 母が100歳になった。

90歳になるまで移住した伊豆高原から新幹線を乗り継ぎ、一人で東京に出てくるので、長生きするとは思っていたけれど、95歳を過ぎてからはめっきり足腰が衰え、女学校時代の親友が亡くなったと風の便りで知ったときは、もう皆いなくなってしまった、もういつ死んでもいいと気弱になり、来る人はいないから葬式はしないでいいからね、という始末だ。しかも戒名もいらないと。
母は1922年大正11年1月20日に、福島県須賀川市で生まれている。100年も生きていれば人生いろいろあるのは確かだ。
安積高女を卒業後、銀行に勤め、すぐに太平洋戦争が勃発、上海事変帰りの父と出会い、彼女が大学で学びたいというと、賛成してくれた。それが結婚する決め手だった。その時代、そんな男はいなかったからだという。日大芸術学部文芸学科に入学。同時に戦争中は文学報告会に勤め、多くの作家や俳人の手伝いをしたという。このあたりの話、断片的にしか聞いてなかったので、今度きちんと取材しよう。今でも頭は明晰だ。
日本の100歳以上は、8万6510人以上。こんな時代にもめげず51年連続で過去最高を更新したという。ただ住んでいる伊東市では、母のように元気に100歳を迎えるのは珍しいらしい。なにしろ役所の手続きなども今でも自分でやっている。
昨年1月には家で転倒して、入院、腰の骨を折ってしまった。こんな折なので、2ケ月間見舞いも不可で、しかもその数か月前から、顎と声帯を痛めていて話すこともままならなかったこともあり心配した。担当医は高齢者が腰の骨を折るとそのままボケてしまい死ぬこともあるといった。ところがリハビリを頑張ったらしく杖があればなんとか歩けるようになり驚かれた。彼女は今でも毎日必ず新聞を読み、僕が15年ぐらい前に朝日新聞を取るのをやめたとき、新聞記者の息子なのにと説教された。
今回、写真を撮るというと、米寿の時に作ったまだ来ていない着物があると張り切っていたが、日々体調が変化するのだろう、当日になって、やっぱり着物はやめるといい、ふだんの外出着で撮った。家のなかにシーツを垂らし背景にして、ストロボで撮影。最近はカメラを構えると撮らなくていいと言っていたけれど、100歳になると覚悟ができたのか、おとなしくカメラの前に座った。

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家内の実家から送られてきた100本(花の数)のバラ

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2014年 92歳
この頃はまだ足腰もしっかりしていた。これは、突然奈良の正倉院の展覧会を見に行こうと車ででかけた時。名古屋近辺。

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2009年 87歳 曽我兄弟 河津三郎血塚 引っ越した家の近くにあるので行きたいという。車から降りてかなり歩いた。

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1953年12月 31歳 幼稚園のクリスマスパーティ。この頃はすらりとしていた。若いころは身長158センチ。今は140センチもない。

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1955年 国府台 里見公園 母33歳 安良夫6歳

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