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「月の都」 ビエンチャン On the Road Laos 2014 ラオスに行きたかった。 〜世界の街道をゆく〜 14日4時魔で無料キャンペーン

「月の都」ラオス ビエンチャン   横木安良夫
キヤノン提供のテレビ朝日の番組「世界の街道をゆく」は、2009年10月から始まり2021年12月28日まで放送された。僕はムービーとスチールを2009年から2016年まで担当した。

月の都 ラオス CITY OF THE MOON    612PAGE  ¥1000 ↑ 
今後、世界の街道をゆく、で撮った写真をCRP写真集で発表します。

当初、Eos5DM2という通常の一眼レフカメラで動画と写真を撮れることが画期的だった。特に動画に関しては、35mmフルサイズの写真の世界がそのままが動くことに驚かされた。それをテレビの帯番組でトライすることは、撮影ばかりか、編集方法や保存など、何もかも初めてで実験放送のようだった。一回が数分の短い番組だが、ある種のインパクトを視聴者に与えた。そのため5DM2で撮ることはテレビ業界ではブームのようになっていた。

僕はいつも使い慣れている、デジタルカメラの背面のスクリーンをみながら動画撮影することは自然な行為でなんの違和感もなかった。
テレビ業界では大きなセンサーの恩恵で大きく背景がボケることに、ことさら大騒ぎをしていたが、僕にとってはそんなこと写真の小さな表現のひとつで驚くことではなかった。
それより35mmカメラのレンズの画角そのままが、映像で使えることが嬉しかった。画角とは、映像では文体のようなものだ、動画を写真と同じ文法で撮れることがよかった。
そして何よりコストパフォーマンスだ。テレビの機材やレンズは、数百万、ものによっては一千万以上の機材もざらだ。それが格安の機材で撮れるようになった。レンズの性能は折り紙つき。ブームになったのも当然だろう。

実際、ロケを初めると、写真ばかり撮っていた僕にはいろいろ解決することがあった。70年代から80年代にかけて、コマーシャルの映像を何度も撮っていたが、それは完全に映画機材で、撮るということに関しては、スチールカメラと何ら変わることがなかった。もっともCMの場合、撮影助手などまわりはプロフェッショナルなスタッフで固められ、僕はファインダ―を覗いているだけだった。スチールカメラマンは照明に口を出せるので重宝された。それでもムービーのカメラマンは僕は性に合わなかった。なにより大所帯で、人がたくさんいる撮影は好きじゃない。僕がわがままだったのか、80年代になるとほとんどやらなくなっていた。
ただそこで学んでいたので、映像と写真の違いは判っていたつもりだった。

TVの映像は、写真と一番かけ離れていた。かつてはSDで画質も悪く、写真とは全く違う媒体だった。CMは35㎜のフィルムを使っていたで写真の延長線上だ。テレビがHDとなり、フィルムと遜色ない映像が撮れるようになった。
引きの写真、フルショット映像が、写真と同じように撮れる。
街道の撮影をしながら、いつも写真と映像の違いを考えていた。
写真は常に主題の変化、バリエーションを追いかけている。未来に向かってシャッターを切る。
撮りながら主題が変わることを予想する。それがごくごく普通だ。
写真はイメージを写真化すればよいが、映像は一つの主題を撮り始めたらそれに一定時間集中しなければならない。
イメージもさることながら、「時間」を撮らなければならない。
突然、興味深い主題が飛び出しても、我慢が必要だ。
今、を捨てる勇気がなければ、最低10秒間は我慢する。ドキュメンタリーの10秒は長い。永遠の時間に感じた。

ロケ中、ひとりで両方撮る時は、ムービーとスチールの時間を配分する必要がある。進行は動画がすすめるので、4分の3がムービー撮影が優先される。写真を撮る時間は残りの4分の1ぐらいしかない。
ただスチール撮影の時間がないマイナスは大きなことじゃない。写真は切迫した時間に面白いものを捉えられることが多い。
良し悪しをじっくり考える時間より直感だよりだ。

60年代、著名な評論家が、キャパの傑作写真を「キャパの白痴」と呼んだ。写真の美的とは違う、切羽詰まった瞬間にリアリティが生まれた。
街道のスチール写真も、考える時間もなく、ひたすら目の前の出来事や、被写体に反応してシャッターを切った。
まあ、写真はたいていそうやって、動物的に撮るので、あたりまえといえばあたりまえだ。
ロケバスは、運転手がいて、僕は助手席に座った。バックミラーの下に、走り用のカメラが固定されている。そのON、OFFや露出、レンズの画角を決める。その横で僕は、EOSに 200mmレンズともう一台50mmレンズを装着して撮る。車から撮るとき、基本200mmだ。50~80キロで走行中、視線は遠くなるので200mmが標準レンズのように感じた。

人物撮影のUPは、何も考えず、誰にでも気軽に声をかける。気分は少しハイだ。みるからに強面の人も、勇気をだして彼の前にたつ。するとたいていは、満面の笑みが帰ってくる。
すかさず僕は「シリアスに!」とお願いする。世界中いい人ばかりじゃつまらない。怖い人はクールに、怖く撮りたい。
僕は、気分がのれば、目の前に出会うかたっぱしに声をかける。たまに「No」拒否されるが、気にしない。

各国語の「写真を撮らせてください」を覚えることにしているが、たいてい「Can I take a photo?」ですませていた。
レンズは50mmを開放気味に、当初は重たい1.2を2.0で使用していたが、途中から軽量の1.8をf2.0に固定し撮影した。

横位置の顔のアップは1mぐらいに近づかなければならない。その1mが、ポートレイトスナップの魔法のような距離だった。
2,3m離れた位置から「写真を撮らせてください」というとYES.の確率がぐっと落ちる。
個人的、パーソナルな1mという距離、そこまでぐいっと近寄って、撮影の許諾を求める。するとほとんどがOKだった。パーソナルな距離で、「No」というのは撮られるほうに勇気がいるのだろうか。

僕は、もともと、自然物、建築物、スナップ、ポートレイトとも、まずは被写体として、「正対」して撮り始めるのが基本だ。
正面を撮り、左側から、右側から、建築でもそうやって撮る。
人間の場合は、ポートレイトなら、目線のある記念写真のようなアングルから撮りはじめる。
今日ここで会った被写体と正対する、
正面から向かい合うことを大切にしている。
そこから先は、自由自在、ケセラセラ。

写真は、相手に断ってから撮るのもいいし、相手の許可をもらわず黙って撮るのも好きだ。どっちも写真だ。許可を得て撮っていても、僕の場合、声を掛ける前から撮っていることが多い。欲張りなのかな、両方の面を見たいし、記録したい。全然違う写真が撮れる。
なんのために撮るのか?と問われるとこもある。
そんなときは街道の撮影のように仕事だったら正直に、「for Japanes TV Program」と答える。すると喜ばれる。
普段は、ただ褒める。「素敵な服」だとか、「美しい」から、「かっこいい」からとか。

ラオス人民民主共和国 首都ヴィエンチャン
「月の都 」 “LAOS 2014”

ラオスは以前から訪れたい国だった。というのも1994年から僕はベトナムに魅せられ20回以上通った。それだけいけば、すぐ隣のカンボジアにも、ラオスにも行きそうだけれど、2014年まで訪れることはなかった。
タイはコマーシャルや、グラビアで数度、ミャンマーは世界の街道をゆくの撮影で訪れている。
カンボジアは「地雷を踏んだらサヨウナラ」一ノ瀬泰造が亡くなった土地だ。カンボジアのシュムリアップをなんどか訪ねようと思ったが結局は行っていない。本質はものぐさなのかな。

ラオスは、90年代に作家の矢作俊彦と「パリに住む異邦人」とうテーマの雑誌の取材の折、巨大スーパーのまるでヤクザのボスといった風采のオーナーが、ラオス出身だと聞いて、ラオス人のイメージが出来上がっていた。
いや、ラオスに行きたかった本当の理由は、インドシナで死んだ写真家ロバート・キャパがハノイ郊外の田園の中で地雷を踏み吹き飛ばされた。
その死の直前、1954年の5月中旬、ラオスの古都、ブランプラバン取材に訪れているからだ。

ロバート・キャパは、写真集団マグナムの会長となり、「もう戦争写真はもう撮らない」と宣言し「戦争写真家失業中」という名刺をもっていた。
そんな彼が伝説のカメラ雑誌、“カメラ毎日”創刊の記念に呼ばれ、日本を4週間撮影する予定だった。講演や写真展まで計画されていた。

実は日本滞在中、連日、インドシナを舞台にした仏印戦争は大詰めを迎えていた。ゲリラ戦で苦闘したフランスは、ベトナム北西部ディエンビエンフーの町を近代要塞化して、ベトナム正規軍を迎え打つ作戦を立てた。ところが大方の予想に反して、制空権を持たないベトナム軍が人海戦術でディエンビエンフーを包囲した。
陥落は時間の問題になった。連日新聞の一面はその記事がTOPだった。
そんなおり突然LIFEの編集長からキャパに連絡があった。
特派中の写真家の母親が危篤となり急遽帰国することになった。
ベトナムのすぐそば、東京にいるキャパに打診があった。
戦争写真は撮らないと宣言していたので、期待はしていなかった。
そんなキャパはなぜ行くことのしたのか。友人や、日本の写真家たちも反対した。キャパは行きたくないといった素振りをしたが、メーデーの撮影をしたあとバンコクに飛び立った。

それでもキャパはインドシナにゆく。このへんの細かいことは、ぼくのノンフィクション「ロバート・キャパ最期の日」を読んでください。

結局キャパはベトナムに遅れてやってきた。ベトナムに入ることはできても、ディエンビエンフーに近いハノイに行くこともできなかった。ディエンビエンフーが陥落したときには、まだサイゴンで足止めを食らっていた。
ようやくハノイに入ったととき、ディエンビエンフーは無理だが、負傷兵がラオスの古都ルアンパパーンに運ばれたという情報で、キャパもそこに向かう。
ルアンパパーンは美しい古都だ。飛行場は負傷兵で溢れていた。滞在中優雅に風景写真を撮ったりしている。その後ハノイに戻る。キャパはライフで有名人だったので、フランスのコーニー将軍とすぐに懇意となった。そこでナムディンからタイビンに向かう掃討作戦の情報を得る。


結局僕は、ラオスのルアンパパーンで、キャパの見た景色を見たいと思っただけだ。
キャパは負傷して運ばれる兵士を撮ったが、畑ではたらく女性たちも撮った。
キャパのインドシナにおける、全部のコンタクトプリントを「ロバート・キャパ最期の日」を執筆中、見る機会があった。だからキャパの行動を想像で書いているわけじゃない。コンタクトプリントは写真家にとって不思議な思考の記録だ。キャパはレンズを35mmから50mmに変える。アングルを下げる。縦位置に撮る。同じような写真を数枚続ける。
そこには全部意味がある。写真家だったら生理的に、想像できる世界だ。

1954年の5月24日。ナムディンからタイビンのデモンストレーションのような行軍にキャパは参加した。
ライフのためのルポルタージュを精力的に撮った。
キャパは、「キャパの白痴」ではなく、よく考えて撮影してい対応。
タイトルは「にがい米」テーマは、戦争と平和の共存。
戦闘はごく一瞬だ。緊張感は薄い。
フランス軍のこの行軍は、水牛作戦と呼ばれ、ベトミンの拠点である、タイビンの前哨基地を爆薬させる、ディエンビエンフーでは負けたけれど、ハノイのフランス軍はまだ意気軒昂だと示す作戦だった。
ハノイのホテルの従業員は、負けたのにバカ騒ぎをしながら落下傘で飛び降りたフランス軍兵士が湖に落ちずぶれになって、皆に笑われたことなど僕に証言した。

キャパは昼食もそこそこに、写真を撮りまくった。
彼の計画では、戦争と平和が混在する新しい戦争。誰が敵で、誰が味方かわからない戦場を、カラー写真で見せたかったようだ。
同じ場所をカラーとモノクロで撮る。
新しい戦争写真のアイデアだった。
皮肉なことに、一所懸命に撮りすぎたのか、
タイビン郊外の土手が左に曲がったあたりで地雷を踏んで死んでしまう。

キャパは後輩の記者に、あと1カット、要塞が爆破されるところを撮る、それが最後のページを飾る写真だ。
そしてその写真は、キャパにとって明確になビジョンだった。

その最後の写真を撮らず、キャパは死んだ。インドシナ戦争で最初に死んだアメリカ人(?)だった。

ラオス ビエンチャン


ラオスの首都ビエンチャンに到着して、空港からホテルに向かうとき、交通量が少ないせいもあるが、車は全くクラクションを鳴らさない。そんな静かな町に驚いた。
町といっても中心部以外、のっぺりとした田園地帯だ。人々はもの静かで、パリ出会った、ヤクザのような男はどこにもおらず、華奢な男性が多かった。
ラオスは、タイ人と人種的に近く、言語も似ている。タイに支配されたこともあり、仲がよいとは言えない。それでいて、ラオスの首都ビエンチャンは、タイとの国境に接していて安全保障の意味から疑問だった。もっとも歴史的にはメイコン川を超えたタイ領もかつてはラオスだったので、ビエンチャンがこの場所にあるのも納得できた。
ビエンチャンは月の都という意味もあり、静かなそのまちにぴったりな気がした。

1999年僕はベトナムの写文集「サイゴンの昼下がり」を出版した。その次の撮影テーマはハノイから上の少数民族の町に訪れることだった。
ベトナムのメインの民族はキン族だ。その他は少数民族ということになる。
2003年ハノイから中国国境の町ラオカイ、そこから少数民族の住むサパに向かう。
ベトナムの少数民族、山岳民族は、もともと中国やベトナム、ラオスの山に住んでいた。かつて山に国境はなかった。近代になり国境が確定されても、自由に往来していたが、定住政策で、各国ごとに民族は別れていった。
ベトナムの少数民族は、モン族、タイ族、ラオ族などと、それぞれ生活様式が違っている。その他、花モン族、黒モン族、ザオ(赤)族など細かく別れている。

2003年初めてサパを訪れた。
着いた翌日の午後、ラブマーケットが開催されるという。聞くと合コンのような、昔の日本にもあった歌垣のようなものらしい。中国を中心とし周辺の少数民族(日本も含む)に共通した文化らしい。
夕方から三々五々、ザオ(赤)族、黒モン族、花モン族の若者が集まってきた。
夜遅くなると街灯のない真っ暗な広場は、彼らでいっぱいになり、時々歓声があがり騒然と
不思議なもりあがりがあった。たしかに目あての女性を目の間に歌を歌ったり、まるで歌垣のようだった。
広場に街灯はなく発売される前のEosKissデジタルの内蔵ストロボで10数枚撮った。初期のデジタル一眼は感度今ほどではなく、ストロボが必要だった。
次来るときにはかならずチャージの早いストロボを準備してこようと思った。
ところが、翌年、その翌年も訪れたけれど、週末のラブマーケットの噂はあるものの、観光客ばかりで深夜をすぎても何も起きなかった。
異変はサパだけではなかった。そこから車で5時間ぐらいだったろうか、BacHaのサンデーマーケットでも同じような経験をした。
サパはかなり観光化していたが、2003年BaHaはまだ素朴なものだった。
そこで出会った花モン族の衣装の美しさに惹きつけられた。インタビューをするとすべて家族の作ったハンドメイドだった。市場ではまだ貨幣よりブツブツ交換が主流だった。刺繍の美しい服は一着しかもっていないといっていた。ずっと着っぱなし。ときどり天日干しするという。シャワーは年数度しか入らないと知り驚愕した。とても現代のできごとに思えなかった。市場で民族衣装は売っていなかった。衣装は買ったり売ったりするものではなく、作るものだった。
翌朝早くホテルを出て、通訳のチュンさんのバイクに乗り、前日ロケハンした峠の全貌が俯瞰できる場所に向かった。10数名のグループが、市場にゆくため峠を登ってくる。そのつづら折りの道は、いくつものグループ点在し確認できる。あのグループは30分後に到着するなと一望できるのが楽しい。峠までつくと一休みするグループもいる。バイク一台に3,4人乗って来る連中もいるが、ごくまれだ。バイクはぼろだけど貴重だ。だからどのグループも荷物を背負い、せっせと歩いている。
朝何時頃でてきたのかと聞くと、2時といっていた。片道4時間も歩く。それが普通のように答える。毎日曜日市場にゆくのが楽しみだと、おしゃれをした少女、たぶん16,7歳が答えた。僕はこの非現代的な生活が永遠にあるのだと思い込んだ。ベトナムのこんな山奥、文明はゆっくりやってくるのだ、この場所は秘境なのだと。
ところが、SAPAと同じことがたった1年後は変容していた。
バイクで来るグループが半分以上に増えた。峠からは、三々五々登ってくるグループがいくつも見えたが、バイクはそんな風景を変えてしまった。あの夢のようなキャラバンの連なりは、ほぼ消えていた。極まれに20人ぐらいの集団がやって来る。
たった1年で、時代は変わる。
その後、僕はBacHa6回訪れている。最後に訪れた2011 年は、SAPAもBacHaも様変わりした。皆、携帯電話を持ち、市場でだれもが普通に買い物をしていた。バイクばかりが車も増え、マーケットには民族衣装が吊るされていた。新しい建物が増え、観光地になっていて、記憶の場所を探すのも困難になってしまった。町は10倍以上に膨れ上がり、洒落たホテルがいくつもあった。

今や秘境は交通の便のない場所しかないだろう。
部外者はかってなもので、あの素朴だった場所が近代化、俗化すると嘆くのは勝手だろう。かつて裸足の花モンの少女は、今大学へ行っている聞き、彼らにとっては自分で自分の人生を決められる良い時代になったということだ。

そんなことわかりきっている癖に、初めてラオスを訪れて、一番興奮したのは、昔ながらのラブマーケットのイベントに遭遇したことだった。僕が遭遇したのは、昼間だった。ベトナムの花モン族より、頭の先から足先まで、ひとりひとり似ているようで、ひとつとしても同じものはない。小学校低学年の子もいる。
ただのおしゃれなのかもしれないが、もっとおおぴらな、合コンと呼べるものだった。
それぞれが硬球のテニスボールを持っている。二列になって向かい合い、じぶんが気にいった相手にほおり投げる。それを受け取る。そして返す。そこにどんな反応があり、言葉にならない会話があるのかは、わからない。もりあがっている風でもないし、まるで知らないどうしのかったるいキャッチボールのようだ。直接口説けばよいけれど、この不思議なキャッチボールは、相手の反応をためしているのか、婉曲なやりとりが、肝なのだろう。
中にどう見ても、40過ぎのおやじもいる。若い子にまじって不似合いだ。そんなことを臆することなく、10代の少女にボール投げる。変態なのかなと思っていたら、奥さんがいても若い子がほしいと、思って参加しているらしい。そういうパパ活として、公然とやっているのが面白い。だからといって、そんなスケベオヤジが持てるわけでもなく、何ごともなかったようにボール投げイベントは解散した。

ラオスの山岳民族が、いまだに素朴(ともいえないが、何しろ携帯はある)めったに観光客もくるわけじゃないのは、道路のインフラが整備されていないからだろう。首都ヴィエンチャンから古都ルアンパパーンまで、直線で結べば300キロぐらい、それが何時間がかかるだろうか。特に山岳民族が住むあたりは、道も整備されておらず、地図で距離はたいさたことなくても、たっぷり時間がかかる。そういう意味で隔離されているようなものだ。ラオスがかつてのベトナム奥地のように秘境に思えるのも、この10年ぐらいのものだろうか。

僕が「世界の街道をゆく」で、訪れた国のなか、一番印象的だったのがラオスだったのは、そこに昔のベトナムを見たからだと思う。いや、僕の生まれるずっとまえの日本の原型を見たのかもしれない。秘境の場所とは、タイムマシンなのだろう。



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