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感受性の消費期限

歳を取ると自分に付随していくものがどんどん増えていく、パートナー子ども社会の繋がり別にこちらがどうでも良いような相手すらまるでチェーンのように付随してどんどん連なっていくのは生きていく為の重石の様にも思える。

うちの母は音楽が好きな人で休みの日になればライブに出かけ、家では四六時中音楽を流す、確かに母は母であったのだけど音楽に触れている間はまるで少女の様にずっとキラキラしていた。
小学生の私を最初にライブハウスまで連れて行ってくれたのもパンク音楽やレコードを教えてくれたのも音楽がいかに美しいかを教えてくれたのも全部母だ、私はそれが誇らしかったし大好きで大人になってあの頃の母の様に自分自身の意思で音楽に触れてそれを味わって生きていけていることが楽しくて楽しくて仕方なかった。

私が22歳の時、母は再婚した。
相手はすごくいい人で優しそうで、でも音楽はそんなに聴かない人だった。
はじめて訪れた私の知らない母の新しい家にはあんなにあった宝物みたいなCDもレコードもそれを流すプレイヤーもスピーカーも見当たらなくて
『音楽、最近はあんまり聴かないかな』っと母は包丁の音を奏でながら優しく笑っていた。

ライブに行かなくなったって、音楽を聴かなくたって、きっと母は母で今だって紛れもなく幸せだろうし心の優先順位とか生活が変わっただけなのだ、母の生活において音楽が絶対必需品でなくなっただけ、ただそれだけの事。
私だって大人になって母から離れて暮らしている訳でお互いの今がアップデートされていないだけ、本当にただそれだけなのに私は勝手に絶望してしまった。

だって私はあのライブハウスできらめく少女の様な母が好きだったから私が知っていたあの少女は誰も知らぬ間にひっそり死んでしまったのかと思うと悲しくなって少しだけこっそり泣いた。

このまま順当に生きて一体私は何歳まで今みたいに素直に音楽を摂取して素直にそれを『美しい』と思えるのか、母みたいに変わってしまうのだろうか、必要無くなって何も感じなくなって、静かに離れていってしまうのだろうか、それを考えると堪らなくて過食衝動に近い気持ちで私は急いで再生ボタンを押した。

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