救世の黒龍

人の印象を決定づける要素とは何か?

ボディータッチはマジでムリとか、ガン見してくるやつキモいとか、呼び捨てされるのだけはナシとか、タトゥーだらけで超コワイとか、とかく心はワガママバーリエル。

しかし、その与える印象と本質が完璧に一致していることなどあるのだろうか?そして嫌いだと認識しているからといって、それが魂の核なる意思であるかは己でも判別が難しい。それほどに人の心は混沌の中にあるのだ。

そんなちゃちぃモノが一瞬で覆る瞬間を、誰もがその人の道の上で刮目するべきであると私は望むのだ。せめぎ合うのが真の目的といわんばかりの二極の中で。

この世界には例外なく例外なる例が存在する。例外なく例外なる例の例外として例外なく生体は霊界へ去るという例外は例外であって今は例外なく例外なる例の存在を語るうえでの例外であるため、その例外は例外として例外に置いておく。

楽しめた過去を思い出した時に果たして楽しいだけか?己の愚かさや未熟さ、経験不足により思えていたのなら、その感情は半転する時もあるのではなかろうか。辛かった思い出も長い目で見た時に今の自分に役立つ経験だったりすることもある。

全く同じ種類の欲望も、その時の状態によって渇望する時もあれば拒絶する時もある。例えば食欲。空腹時と満腹時がそれにあたる。あくまで複雑な心理を理解しやすく例えた例である。他にも沢山の例がある。

それ以外にも思想の変化や一時的な気分、自分の置かれた環境、その時に抱えている問題の種類や有無までもが心理に影響をあたえるのだ。人が抱きえる感情の制約と流れゆく時間の中で二度と全く同じ心理状態にはなりえないのである。

そして逆境の海原で心が弱りきってしまった時こそ見えるモノがある。真理なる心理はそこで発動する。信じていた概念は崩壊し、好嫌の指針は振れはじめる。荒波に揉まれ沈みゆく身体、息苦しい中で水面へ伸ばす手、都合よく白馬の王子などは現れてくれたりはしない。

その時 差し伸べられるのは
君だけを見据え
その名を激しく叫び続ける
龍の巻きついた手の者かもね

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