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ワタリさん、煙も飛べるはず

地下鉄の駅を降りて、飲食店の灯りを追い越していく。
少しずつ閑静になっていく街並みに、物音の密度はだんだんと濃くなっていった。
ワタリさん行きつけのバーで合流する。

隠れ家という言葉が似合う優しい店内。
「生」を飲むと言って、ペプシの生を頼む。炭酸と氷の音を楽しみながら、ぐびっとコーラを喉越していった。
禁酒をして1年半。今はコーラとジンジャーエールが一番うまいと唸る。
甘い炭酸水をお供に、一服する。

おもむろにデンモクを操作し、マイクを握る。
松山千春さんのデビュー曲『旅立ち』が流れる。北海道の広大な景色が頭に浮かんだ。
「あなたはあなたの道を歩いてほしい」という別れの歌詞を、簡素なテロップの上で追いかける。

歌い上げるとまたコーラの喉越しを楽しむ。
暑い夏の夜によく冷えたビールを飲んだかのごとく、爽快な表情をした。
飲み干すと、空いたグラスに氷を足し、ペットボトルから大事に流し込んでいく。
その手捌きは、キープしたボトルから作るハイボールのそれであった。
新しいコーラに口をつけ、タバコを咥える。

願掛けでお酒を断ち、それ以来キッパリとやめているとのこと。
ネタを考えている時にはよく紙タバコを吸うと言う。
慣れた手つきで火を点けて、美味しそうな横顔で煙を吐いた。

R-1グランプリの決勝が今週末に近付き、思いの丈を綴ってもらった。
2020年3月。目指していた決勝の舞台は無観客だった。
あれから3年が経ち、「早いなぁ」と天井を見る。

真面目な話の方向に進んでいくと焦って立ち止まり、姿勢を正す。
「危ない危ない」と言って、またデンモクへ目を向ける。
スピッツの『空も飛べるはず』が流れる。

「たまに歌わないと、しんみりしちゃうから」と。
歌う前に吸っていた紙タバコは灰皿に横になり、立ち込める煙は不自由そうに店内を飛んでいった。

反省モードに入ってしまうことは多々あるが、ネガティブなわけではなく、安全確実に行動しているだけだと語る元消防士。
最後は「芸人さんになりたい」とこぼし、炭酸の抜けたコーラと、溶けかけの氷を口に含んだ。
また灰皿から弱々しく煙が、ゆっくりと飛んでいた。


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