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違和感と美しさの先へ

今までのこと

黄衣ちゃん(Kii-Chan)という人物を最初に描いたのはおそらく中学生ごろで、そのときは緑の目をした金髪の女の子、という何の変哲もない姿でした。

小学生から父の本棚にあったクトゥルー神話の書籍に魅了されていた私は、その神話作品に登場するハスターという邪神に惹かれ、その化身として紹介されていた"黄衣の王(こういのおう、おういのおう)"をベースにキャラクターを創作したのです。
残念ながらその頃の絵は殆ど残っていません。

彼女を最初に「左目がふたつ、右腕がふたつ」ある、普通の感性から見れば不気味に感じる姿で描いたのは少なくとも10年前のことであり、その作品は今も残っています。

イラスト

左:2011年 制作    右:2020年 制作、左作品のリメイク

この2011年前後では、まだ自分が作り上げた黄衣ちゃんというキャラクターをそこまで意識しておらず、年に一回か二回ほど描く程度の、何気ない看板キャラクターという立ち位置でした。

しかし、2017年あたりから、黄衣ちゃんを多く描き始めるとともに、次第に自分自身の作ったこの黄衣ちゃんという人物に魅力を感じていきます。
そしてそれとともに「何故自分はここまで黄衣ちゃんが好きなのだろう?」という疑問に行き当たります。

歪んでいること

黄衣花束ヴォイニッチ

2021年9月 制作 ヴォイニッチ手稿の花とともに

黄衣ちゃんの作品が、時折多くの人によって広くRTされると、はじめて彼女を知った人のリアクションのなかで「脳が混乱した」「不気味で怖い」などのコメントが残されることがあります。

「歪んだ人間の顔」をヒトが見たとき、背外側前頭前野と呼ばれる脳の部位が反応します。この領域は学習や推測、判断といった、理性的な思考を行うところで、歪んだ顔を見て「普段と違う状況だ」と判断すると、脳のほかの部位に対して注意を促すそうです。

不思議なことに、「歪んだ家具」などの非生物的なものに対しては、何度も見るうちに次第に慣れてくるのに対して、こと「顔」となると、一ヶ月ほど見続けても慣れることなく、脳が反応し続けるそうです。

これを芸術家フランシス・ベーコンをはじめとする、人体を歪ませた作品が見たひとに与える衝撃の要因と考える研究家もいます。
ホラー作品などで人間の顔を歪んで恐ろしく見せる手法も、これらの効果が相手に効果的な恐怖を与えられるが故に多くあるのでしょう。

黄衣ちゃんを見た人のなかにも恐らくそれが起こっているのです。

美しいこと

「脳は歪んだ顔に慣れることができず同じ警戒反応を出すこと」は、裏を返せば「常に飽きない刺激を与えることができる」ことになります。

では「歪んだ顔」が「美しい」ものであったならば、それはある種、何度も見たとして飽きることのない、普遍的な美と言えるのではないでしょうか。

私が黄衣ちゃんに魅力を感じてきたのは、私自身が絵の腕を上げ、好きな顔を上手く表現することが出来るようになり、歪みと美しさの両立がとれはじめたことを意味します。

私の目指すところは、誰もが黄衣ちゃんを美しい、かわいいと感じるような作品を作ることであり、そのためには、「左目がふたつ」という、脳が警戒してしまう「歪み」要素を、それ以上の美的感覚による刺激と混ぜ合わせる必要があります。
痛覚がそれ単体では苦痛にも関わらず、味覚とともに刺激すれば「辛味」として多くの人に好まれるように、絵でも同じことをしたいのです。

しかし「歪み」に対する脳の反応が多くの人にとって普遍であるのに対し、単純な「好みの姿」は国や文化、個々の嗜好で大きく変わってしまいます。特にキャラクターはあまり大胆に姿を変えることもできないので、コーディネートでテーマを変えることはできても、髪色などから印象をガラリと変えてしまうことは難しいでしょう。

黄衣ちゃんはいちばん初めに描いたように、緑の瞳、金髪、そしてポニーテールが基本の姿となっていますが、左目がふたつに右腕がふたつという姿になってからは、その唯一無二の特徴を利用して、髪型はもちろん髪色、さらには瞳もカラコンを使うなどして、自在に姿を変えることができます。
(そうした例は見出し画像にいくつかあります。)

こうして多様な姿の作品を作ることで、より多くの好みに一致させて、広く黄衣ちゃんの魅力をアピールすることができるかもしれません。

黄衣コーデ

2018年 制作 黄衣ちゃんをモデルにした春夏服コーディネート

この先のこと

「黄衣ちゃんを描く」というのは、私にとっての無数に存在する「やりたいこと」のうちの(特に重要な)ひとつです。
ファンアートも描きたい、風景画も描きたい、漫画も描きたい……それだけでは済まさず、最近は3DCGに音楽、そして今書いているような文章など、やりたいことに四方八方手を伸ばして、着実に器用貧乏の道を歩んでいると言っていいでしょう。

しかし、自分の表現したいものが自分のやってきた手法で収まるとは限りません。今後もしかしたら、音楽でないと表現できないことや、3Dでないと表現できないこと、あるいはまだ殆ど手を付けてない、立体造形に頼らないといけないときが来るかもしれません。

自分の作りたいものを、それぞれ個別に最も適した手法で作る。これは非常に難しいことだと思いますが、歴史上多くのアーティストがやってきたことでもあると思います。

やがて、誰もが怖がらず、純粋に魅力的だと言われるような「黄衣ちゃん」を出せたらいいなと考えています。

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2018年 制作 フードポルノ


#わたしの舞台裏



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