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台湾の方が何故親日家なのか?

前の記事の書いた一件も有ったし、他の仕事でも20代の初めから半ばに掛けて時々、仕事で台湾に行っていた。

初めての海外での仕事が台湾だった。

一番最初は前の記事の1件がきっかけで、その家電メーカーの台湾にある現地法人が日本と同じ技術を採用したいということで、例のトラブルの事で客先からと研究開発室長のご指名で台湾に行くことになった。

最初は当時日本最大手の家電メーカーの担当をしていた先輩社員の手前もあったし、

「私にそんな大役は負えません」

と断ってみたが、

「行って貰わんと困る!研究開発室長のカバン持ちだと思って行ってくれ!」

と言われて、先輩社員の冷たい視線を気にしながら行く羽目に。

当時の会社の社風は売上より、どんな会社と付き合いしているか?どこの会社の担当かというのが、ステータスになっていた。

内心、『馬鹿じゃね』と僻みも込めて思っていた(笑)


そんなこんなで、初めての台湾出張が決まり、研究開発室長筆頭に研究の先輩社員と三人で降り立った台北空港。

何とお迎えは現地エージェントが用意した黒塗りのリムジン😳

『マジか😅。こんな待遇で出張してんだ😳』

と思った。

因みに2回目の台湾出張は研究開発室の先輩社員と2人だった時は普通のセダンがお迎えに来て、『やっぱりな😅』と思った。


1回目の出張で、今後の開発方針が決まり、現地でフィールドテストを行い、性能を先方が確認した上で採用という報告で決まったため、何度か現地に出張していた。

しかし、そこである条件が付いた。

担当者の兵役義務がその間に入ってしまうので、それを避けてから開始となった。

その兵役義務が終わってからのフィールドテスト開始。

そういう話題は避けた方が良いなと何となく思っていたのだが、余りそういうことを何とも思ってない研究室の先輩社員が、「どうして、兵役義務に就いておられるんですか?」とど、ストレートな質問を二回目の出張でぶつけた💦

焦って、その場を取り繕うとしたが、その担当の方は私のことも察して穏やかな笑顔で、

「いつ、中国が攻めてきてもいい様に…」

と答えられた。

当時は何となく、台湾の歴史は知っていたけど、余り歳が変わらない方でもそういう危機感を持って居られるんだと実感したと同時に、自分たちが戦後生まれで如何に”平和ボケ”して育ってきたんだなと思った。

と、同時に元は同じ民族なのに…という何とも言えない気持ちにもなった。

それはそれで、また俺の平和ボケして育った感覚なのかとも…


その後も何度か台湾に仕事で行く機会があり、一人で現地までタクシーで行く機会があった。

その時の年配のドライバーさんが「日本の方ですか?」と日本語で話しかけてこられ、「日本語お上手ですね」と返すと、空港までの道中で色んな話を伺った。

その方曰く、我々は日本には感謝していると仰った。

それが意外だったのだが、こう話された。

私たちの先祖が大陸から逃げて来た後、日本が統治してくれたお陰で台湾のインフラ整備が整った。だから、今の発展は日本のお陰なんだと。

だから、我々は日本語を教えて貰ったことを感謝して、次の世代に伝えていると…


どうしても日本が統治してきた歴史というのはそれまでネガティブなイメージしかなかった自分にとって衝撃的な言葉だった。

しかも、その方が日本語で語られているということも…

実際、台湾で日本語を話される方は多いと実感はしていたが、そういう想いで受け継いで下さっているとは思ってもみなかった。


勿論、同時期に台湾以外にも韓国や中国にも出張で行った。

何れも1週間から2週間は滞在していて、中には仕事抜きで仲良くなり飲みに行くような間柄になった方は居たのだが、そこまでディープな話は伺えなかった。

どうしても我々日本人は”統治”という言葉にはネガティブなイメージを持ちがちだったが、当然語られている歴史の事実はあるのだろうし、当時統治してきた人物も国によって違うだろう。

しかし、それをどう受け止めているかということが大事でもあり、そういう台湾方々が日本に好意を寄せて下さっているの様な側面は余り伝えられてきてはいないことも事実だ。

勿論、中国でも地方出身者でそこの地域は貧しく、日本語を勉強をして日本で頑張ると言ってくれた若者も居たし、韓国でも日本に留学した経験があり、俺の事を兄弟と呼んでくれた人も居た。

どうしても、マクロ単位での声は聞こえない。

情報があふれるこの世の中ではどうしても小さな声は届かないが、そういう声もちゃんとあるんだよって見聞きした人がちゃんと伝えるべきなんだなとこの歳になって色々思うようになった。



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