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アルフレッド巡礼記 5日目その1: ウィンチェスター大聖堂(1)

アルフレッド大王聖地巡礼記、5日目
古都ウィンチェスターの名所やアルフレッド王に縁のありそうな場所をゴリゴリ回ります。(ウィンチェスター大聖堂、ウルヴジー城址、シティ・ミル、ハイド・アビー、グレート・ホール、ウィンチェスター城址、等々)

まずは街のシンボル、ウィンチェスター大聖堂から。

<<(前回はこちら)(次回はこちら)>>


◆本篇

※前回までは各ページの下に補足を書いていましたが、今回から別に分けてまとめました。>>各ページの補足はこちら

p5-1.

>>P. 5-1 の補足

p5-2.

アルフレッド巡礼記、5日目、2ページ
>>P.5-2 の補足

p5-3.

>> P. 5-3 の補足

p5-4.

>> P. 5-4 の補足

p5-5.

>> P. 5-5 の補足

p5-6.

>> P. 5-6 の補足

p5-7.

>> P. 5-7 の補足

p5-8.

>> P. 5-8 の補足

p5-9.

>> P. 5-9 の補足

p5-10.

P. 5-10 の補足

今回は一旦ここまで。次回はウィンチェスター大聖堂の続きを書きたいです。

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◆各ページの補足/リンク

※前回までは各ページの下に補足を書いていましたが、今回から別に分けてまとめました。

[P. 5-1]

「アルフレッド王の戦い」書誌情報
https://www.iwanami.co.jp/book/b254568.html
「アルフレッド王の勝利」書誌情報
https://www.iwanami.co.jp/book/b255099.html


[P. 5-2]

ウィンチェスター大聖堂ウェブサイト

◆「ハット・フェア」ウェブサイト
(毎年行われる大道芸/路上パフォーマンスのイベント)

[P. 5-3]

「ウィンチェスター・バイブル」の垂れ幕
身廊にかかっているバナー(垂れ幕)のデザインは、「ウィンチェスター・バイブル (Winchester Bible)」のもの。
1150~1175年頃に作成されたロマネスク様式の装飾写本で、「現存する12世紀イングランドの聖書」としては最大のものらしいです。
2011年時はどうだったか忘れましたが、2018年に行った時は北袖廊に展示コーナーがありました。
現在は「King and Scribes」という常設展に展示されるようです。

【余談】少し前(2020年前後?)に、大聖堂のミサか何かのストリーミングで、聖職者の皆さんがウィンチェスター・バイブルっぽい模様の祭服を着ていた気がするのですが、バナーをリメイクしたのかも(?)。

[P. 5-4]

ウォーリーをさがせ!」シリーズはイギリス発なので….。
(特に意味のないこじつけ)

◆アルフレッド王のいるステンドグラス:
クリミア戦争
終結の翌年、1857年頃に設置されたもの。写真は撮りそびれましたが、追悼文や戦没者名の碑文もあり、出口扉を囲っています。
>> 碑文の写真は War Memorial Online の当該ページ など参照。

追悼されている第97連隊(アルスター伯連隊(97th [The Earl of Ulster’s] Regiment of Foot)は、アイルランド貴族アルスター伯 (Earl of Ulster, Peerage of Ireland) の称号を有する フレデリック王子 (Prince Frederick, Duke of York and Albany) の名の下に創設された歩兵隊
当初はアイルランド出身者で創設されたようですが、次第にイギリス全土で徴募するようになり、1824年に連隊本部がウィンチェスターに移されたようです。

▶ステンドグラスに描かれているのは恐らく(左から):
上段:「勝利」の象徴/大天使ミカエル/聖ジョージ/「平和」の象徴。
中段:聖ヨシュア/聖ギデオン/聖ダヴィド/聖ヨナタン。
下段:エセルバート王(ケント王?)/(不明)/(不明)/アルフレッド王
下段中央の2人の王様については、出口部の風除室に遮られて名前が見えないので、あれこれ調べましたが、見つけられませんでした。
※「ケント王エセルバート (Ethelbert)」は6~7世紀(616年没)の王とアルフレッドの兄(865年没)がいますが、恐らく前者。

2018年の第2回巡礼の際に売店で買った「Winchester Cathedral Stained Glass」(Mary Callé 著)という本によると、作者C. A. Gibbs (Charles Alexander Gibbs)。※設置年もこの本を参考にしました。

アルスター伯連隊クリミア戦争殉死追悼ステンドグラスの全貌。
西側壁面の南側(1番大きい西窓ステンドグラスに向かって左側)の出口の上にあります。


▶Google ストリートビューで見るとこのへん


[P. 5-5]

◆「大西窓 (The Great West Window)」の破壊の背景:
<時系列メモ>
ウィンチェスター大聖堂は1093年に落成式 (聖別) を行った後、16世紀前半 まで増築・改築され、堂内の各所に大小のステンドグラスも設置されていきましたが、この「大西窓(グレート・ウェスト・ウィンドウ)」(の構造)は14世紀の改築時に作られ、ステンドグラスも1375年頃に嵌められたようです。
しかしヘンリー8世の宗教改革/修道院解散(The dissolution of the monasteries, 1536年~1541年) が発動されると、ウィンチェスター大聖堂のリノベーションもストップし、徐々に荒廃。
その荒廃の途中、エドワード6世(ヘンリー8世の息子、初のプロテスタント王)の時代には、ピューリタンの「贅沢な装飾、ダメ絶対」的な思想で、堂内のいくつかのステンドグラスを「装飾のないガラスに変えろ」と指示されたりしたものの、この「大西窓」はまだ壊されていません

が、17世紀のオリヴァー・クロムウェルとイギリス内戦(1642~1652年)の時代に、王党派/騎士党の街だったウィンチェスターは、議会派/円頂党(クロムウェル側)の軍に占拠され、「大西窓」も(堂内の他のステンドグラスと一緒に)破壊されてしまいました。

「しかし、街の人々はそのガラスの破片を集め、ひそかに隠し持っていたのです」
――(うろ覚えですが、ガイドツアーか何かで聞いた逸話)

そして1660年の王政復古から間もない1660年代後半、大西窓は、保管されていたガラス(※大西窓以外のものも含む)を寄せ集めて、現在の姿に近い形に組み直されました。
更に18~19世紀の補修、1994年の補修などを経て、現在に至る…という経緯のようです。
(歴史的な認識の過誤は薄目でスルーしてやってください)
<参照:「Winchester Cathedral Stained Glass」(Mary Callé 著)>

大聖堂正面の「(大)西窓」を堂内から見たところ。
右端の列が暗いのはバナーの影

ウィンチェスター大聖堂についての詳しい歴史などは、下記の本(英語)に詳しいです。 Internet Archiveの 1時間レンタル(要ユーザー登録)で読めます。
Winchester Cathedral : nine hundred years, 1093-1993 by John Crook

ゲーム「アサシンクリード ヴァルハラ」関連の拙記事にも、あれこれ書きました。(というか、この時にようやく色々調べました…)

[P. 5-6]

▼ウィンチェスター大聖堂のもう少し詳しいレイアウト図。礼拝の案内看板。(2018年撮影。下側が西/正面/出入口)

◆ウィンチェスター大聖堂の聖歌隊席
14世紀(1308年頃)のクワイア・ストール(聖歌隊席/Choir Stall)は、この規模の教会に現存しているものの中で、最も古いらしいです。

クワイア・ストール別角度。
刺繍入りの座布団は、刺繡家 Louisa Pesel (1870–1947) によるもの。

◆12世紀の墓
ウィンチェスター主教 Henry of Blois (1171年没)の骨が納められている(ことになっている)棺。
この場所は元々はウィリアム2世(赤顔王/Rufus、1100年没)が埋葬されていたらしいですが、ウィリアム2世の遺骨は後述の「霊安箱/Mortuary Chests」(p.5-9参照)に移されています。

[P. 5-7]

◆グレート・スクリーン(Great Screen)
この石造りのリアドス(Reredos、祭壇の後ろの仕切り等の装飾)は、元々は15世紀のものですが、16世紀のイングランド宗教改革時に壊されたりして、現在は19世紀の石像が並べられています。

2018年初頭に100年ぶりの大掃除をしたので、2018年秋の第2回巡礼時には 2011年より綺麗になっていたようです。

※ウィンチェスター大聖堂のサイトに各象の配列と名前の一覧の載った資料があったのですが、現在はリンク切れになっていますので、Wayback Machineの取得分(PDF)を参照ください。

▼使用した写真のフルサイズ。

2018年撮影。下部のかっこいい掛布がかけてある台が祭壇。
中央がヴィクトリア女王。
向かい合って見切れているのが我らがアルフレッド王のはず。
(2018年撮影)
アルフレッドかと思ったけどハズレだったサクソン王っぽい象、その1。
エドガー王(アルフレッドの曾孫)らしいです。大掃除の前なのでホコリっぽい。
(2011年撮影)
アルフレッドかと思ったけどハズレだったサクソン王っぽい象、その2。
クヌート王でした。サクソンですらない…。
スクリーンの中心を挟んでアルフレッド王と対称の位置にいます。
(2018年撮影)

p.5-8Wikimedia Commonsからお借りした大きな全体写真(2014年)。1番大きなサイズはリンク先を参照ください。
アルフレッド王の象が鎖帷子?を着ているのは、ステンドグラス同様、軍事と結び付けられたイメージが強かったからかも。

Photo by DAVID ILIFF. License: CC BY-SA 3.0


[P. 5-8]

グレート・スクリーンの詳細な全体写真
上記(p.5-7の補足)参照。

◆「Mortuary Chests (霊安箱/遺体安置箱)」:
「大聖堂」以前の何度かの建て替えや17世紀のイングランド内戦などで埋葬者の遺骸や霊安箱の中身がバラバラになり、その後にテキトーに詰められたので、箱書きと中身は一致していません。
2019年頃に中身の法医学的調査が行われ、23人分の骨(の一部)が入っているらしいことが判りました。調査結果は大聖堂の常設展「Kings & Scribes」で展示されているようです。

[P. 5-9]

霊安箱(Mortuary Chests)の解説板
解説板に書かれている
王族・司教は以下の通り。:

  • キネギルス王(King Cynegils, 643年頃没):ウェセックス地域の王様で初めてクリスチャンに改宗した。

  • チェンワラ王(King Cenwalh, 672年頃没):キネギルス王の息子。ウィンチェスターに主教座を移して教会を建てた。

  • エグバート王(King Ecgberht/Egbert, 839年没):アルフレッドの祖父。政敵に敗れてフランク王国に逃亡したり、アングロサクソン・イングランドを一瞬統一したり、ウェセックス王家を世襲制にしたりした。

  • エセルウルフ王(King Æthelwulf/Ethelwulf, 858年没):アルフレッドの父。近隣の王国とバチバチやっていたが、晩年、アルフレッド少年をローマ巡礼に派遣したり、みずからも一緒にローマ巡礼したりした。

  • クヌート王(King Cnute/Canute, 1035年没):イングランドを征服した。この人も「大王」。漫画「ヴィンランド・サガ」参照。

  • エマ王妃(Queen Emma/ Emma of Normandy, 1052年没):クヌートの妻、エドワード懺悔王の母、3度の結婚、ノルマン征服の影の立役者かも、等。

  • アルウィン主教(Bishop Ælfwine/Alwyn, 1047年没):エドワード懺悔王(告解王)の戴冠@ウィンチェスター大聖堂の際の、ウィンチェスター主教。

  • スティガンド主教(Bishop Stigand, 1070/1072年没):1066年に最後のアングロサクソン王・ハロルド2世の戴冠をした。バイユー・タピストリにも登場。

  • ウィリアム2世(赤顔王)(King WIlliam II (Rufus), 1100年没):よく判りませんが矢に射られて死んだ。

他にも初代ウィンチェスター司教 Wini などが納められている(と箱に書いてある)らしい。

▼その他の霊安箱の写真(5種)

胴体部の説明に「KYNGILS (Cynegils)」の文字が見えます。
フタの部分は「ADVLPHVS R(EX) OBIT A DM 857」 (アドルファス王、857年没)とあり、これがエセルウルフ王(アルフレッドの父)のことらしいです。(16世紀に骨を移した際に、司教リチャード・フォックスが当時風に名前を翻訳したらしい)
>>参考資料 Winchester Cathedral, its monuments and memorials (P.22) (John Vaughan,1919)
エグバート王 AD 837年没(EGBERTVS REX OBIT A DM 837)」と見える箱。
クヌート王とルーファス王(CANUTE ET RUFE REGUM」、
エマ女王(EMMA REGINA)」の文字が見える箱。
「この箱と反対側の箱には」とあるので、別々に入っていたのかも。
「EDREDVS REX、OBIT A DM 955」とある箱。
エドレッド王(Ædred)はアルフレッド王の孫(エドワード長兄王の息子)の1人。
上のエドレッド王の箱の裏側かも
没年記載のない「エドマンド王」の箱。
どのエドマンドか謎ですが、アルフレッド王の(早世した/王位継承から外された)子供のひとりでは、という説や、
エセルレッド無策王 (Ethelred the Unready)の息子のエドマンド剛勇王(Edmund Ironside, 1016年没)という説などがあるようです。>>参考

◆「やることが…やることが多い…!!」
金田一少年の事件簿外伝 犯人たちの事件簿(1)」の参考記事/画像(「オペラ座館殺人事件」)からトレス…。

◆エグバート・ストーン (Egbert's Stone):
エグバート王の名を冠した石。

アッサー著のアルフレッド王の伝記(和訳「アルフレッド大王伝」)および「アングロサクソン年代記 (A本)」に、
878年のイースターから7週目、アルフレッド王は、セルウッドの森の東にある「エグバートの石」に(騎馬で)向かった』(概略)
とあります。(「アングロサクソン年代記」の写本によっては記載なし)

すなわち、878年の年明けにデイン軍に奇襲を受けてアセルニーに逃れていたアルフレッド王が、反撃のため兵を集めた際の集合場所が、この「エグバートの石」。
その反撃「エディントン(旧エサンデュン)の戦い (Battle of Edington/ Ethandun」で遂にデイン軍を破り、グスルムと和議を結んで平和を勝ち取る…という、アルフレッド史観的に重要なアイテムであります。(※私見です)

実際の場所、大きさ、形状などは特定されておらず、用途も不明で、「州境の目印」説などあるようですが、墓ではありません(多分)。

参考画像

なお「エディントン」の場所と推定されている丘(のひとつ)に、近年になってから設置された、エグバートの石を模したと思しき記念碑があり、2018年の巡礼時に行きました。
他にも「エグバート・ストーン」とされている石があり、皆さんお好きですね(自分もです)、という感じです。

エディントンの戦いの記念碑(2018年撮影)

[P. 5-10]

◆お騒がせエセルウルフ父王
エセルウルフ父王の巡礼が発端となったウェセックスお家騒動の経緯については、文末に書いておきます。

◆ウィンチェスター大聖堂の傾き
▼「傾いている」と言われて撮った写真。建物の東端の南側通路。
この時修復していた(その後直った?)のか、昔に傾いてそのままなのか未確認ですが、確かに傾いていました。

奥や右に傾きが見える。
(右端はカメラの広角によるものかも知れません)

100年前の「崩壊の危機」
ウィンチェスター大聖堂の場所は元々は近隣の川の氾濫原に建てられており、特に東端(奥側)は、ピート(泥炭)層で土壌がゆるかったため、地盤沈下で南東の通路(上の写真のあたり)から崩壊しそうになっていたそうです。
対策として、基礎部分の補強工事のため地下水位を下げる必要があったものの、地下水を汲み出そうにも底に粒子の細かいシルト(silt/ 沈泥)層があり、ポンプが一緒に吸い上げてしまう=余計地盤が脆くなるため、頓挫。

そこで地下水に潜水夫が潜り、コンクリ土嚢を積み敷いてシルト層を押さえ&補強することで、ポンプ汲み上げ(からの基礎工事)を可能にしたのですが、
この非常に困難な作業を6年かけて完遂し大聖堂を救ったヒーローが、ウィリアム・ウォーカー氏で、その胸像が敷地内の2か所に置かれています。(上の写真の柱の根元にもチラっと写ってます)

William Walker氏の像。(2018年撮影)



◆その他の写真や余談

▶ウィンチェスター司教リチャード・フォックスの墓

Richard Foxe (Fox)(1528年没)は、16世紀に「霊安箱」にエセルウルフ父王をアドルファス王(Adulfus Rex)と書いたっぽい人。(P.5-9補足参照)
南東通路にある檻みたいな所に入ってます。

遺骸を模した「メメント・モリ (cadaver/ transi/ memento mori)」タイプのエフィジー
中央下部あたりの暖炉みたいな穴がフォックスのエフィジー。
この壁とその裏が、フォックスのチャントリー・チャペル (Chantry Chapel)=永代供養用に寄進された礼拝堂になっている


▶【余談】ウェセックス御家騒動の流れ

◆エセルウルフ父王とウェセックスお家騒動の経緯
他の記事でも何回か書いた気がしますが、改めて、流れなど。

エセルウルフ父王の治世には多少の「ヴァイキング」が攻めてきたものの、そこまで本格参戦ではなく、近隣の王国との勢力争いや国内トラブルの方が多かったようです。
※この辺は諸説ありというか、エセルウルフ王やその長男でケント王のアセルスタン王なども「ヴァイキングに勝利」していたものの、アルフレッドの「ヴァイキング(大異教軍)に勝利」の強調のため、矮小化されている可能性も。

  1. エセルウルフ(父王)が晩年(50~60代?)、アルフレッドを伴ってローマ巡礼に出かける。留守中、最年長の息子エセルバルド (Æthelbald)を暫定の国王とし、国を任せる

  2. エセルウルフとアルフレッドご一行様、ローマと西フランク王国で丸1年過ごした後に帰国
    その際エセルウルフは、大陸との関係強化のため、西フランク王シャルル2世(禿頭王)の娘・ジュディス(Judith、推定12歳)を後妻に貰ってきてしまう。
    (※エセルウルフの子供は皆、前妻のオズバーガ(Osburh/ Osburga, オズブルフ)との子供。オズバーガはアルフレッドとエセルウルフがローマ巡礼に行く前に亡くなったか、ジュディスとの婚姻のために離婚させられたか。)

  3. 帰国したエセルウルフが王位に復帰しようとしたら、エセルバルドが国王の地位を返すのを拒否
    エセルウルフが既に巡礼=引退的なイベントをしたことや、若い後妻ジュディスを連れてきたこと、および彼女の扱い(目上の国からお輿入れされた姫なので、通常のアングロサクソンの王妃よりも扱いが上)も臣下たちの反感を買い、大紛糾
    結局、セルウッドの森を境に、西半分をエセルバルド、東半分をエセルウルフが治めることで決着し、ウェセックス王国は実質的に分裂

  4. エセルウルフが約2年後に亡くなる。
    死後、なんとエセルバルドが義母であるジュディスを妻に娶り、大スキャンダルとなる。が、エセルバルドも2年後に死亡
    (ジュディスはフランク王国に戻り、再婚)

  5. エセルバルドが居なくなったので、セルウッドの壁が崩壊…もとい、後を継いだ弟エセルバート(Æthelbert)が東西ウェセックス再統一一件落着。(少なくとも国内は)

【参考】判りづらいですが、ウェセックス家の家族構成。
(別記事/ドラマ「ヴァイキング~海の覇者たち~」との比較用に作成)


次回ウィンチェスター大聖堂の続きを進めていきたいです。

もしお気に召しましたらチャリ銭などいただけますと、諸作業が捗ります!